新生活66週目 - 「神殿での少年イエス」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「聖家族 (2021/12/26 ルカ2章41-52節)」。

福音書で洗礼者ヨハネの活動以前の記述があるのはマタイ伝とルカ伝。諸説あると思うが、私はこの時期の両福音書に並行箇所はないと考えている。系図も違うし、誕生シーンが有るのは、ルカ伝だけだ。ルカ伝のこの部分は創作ではないかという説もある。つまり、クリスマスの記述はフィクションかも知れないということだ。ルカ伝の著者はパレスチナの人ではないと推定されている。例えば、ナザレ、ガリラヤ湖近郊とエリコ、ベツレヘムを含むエルサレム近郊の距離感が伝わってこない。陸路、海路の使い方がどうだったのかもわからない。ここで福音朗読を引用させていただく。

福音朗読 ルカ2・41-52

 〔イエスの〕両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。

過越祭は3月後半から4月の満月で、エルサレムから一度下ってヨルダン川沿いをガリラヤ湖に向かって登って戻ったのだろう。一日分の道のりを行くとエリコのあたりだろうか。エリコの気候を調べると、過越祭の頃は乾燥しているが少し降水もあり、日中に夏日になることはあるが過ごしやすい時期に見える。この記事が事実であれば、恐らくナザレから連れ立って100km以上離れたエルサレムへのツアーに参加していたのだろう。一日分の道のりを行くまで気が付かなかったということから、それなりの人数だったと考えられる。エリコは死海に近く高度が-250m程度、神殿からは1,000mの下りで、引き返す時は昇りとなる。実際、はぐれてしまったら容易には会えないように思うから、神殿まで行ってみたらいたという話は出来すぎだと思う。絶対にそんなことはなかったとは言えないが常識的にはありえない話だろう。

当時の12歳はどのような風だったのだろうか。体の成長はそれほど変わらないだろうから、まだ青年とは言えないだろうが教育制度が今とは違うだろうから、経験はともかく知識は青年と大差ない状態になっていたかも知れない。

見た目は子供のイエスから、学者が質問を受けたら教えてやろうという形で答えることはあるだろう。会話を始めてみたら、えらく早熟で質問が鋭くてたじたじとなったというシーンだろうか。聴衆は、学者が追い詰められるのを見るのは痛快だっただろう。牧師を含め多くの教師はナルシスティックで、聴衆によって与えられる自己肯定感を糧にして生きている。実際には、完全ではありえないので恥をかくシーンは必ずあるのだが、そこでごまかすか真実に向き合えるかで未来は変わる。この聖書のシーンを想像すると、そこにいた教師は運が悪いと思うが、どうだったのだろうか。子供と侮って墓穴を掘ったか、対等な立場に立てることができたかは書かれていない。

マリアの反応は至って普通である。親は子供を愛し、その安全を願うが、子供からするとそれは感謝することであると同時に束縛でもある。自分にとって必要なことを選んだ時は認めてもらいたいと思うのも自然なことだ。表現は別として少年イエスの反応も自然なものだと思う。ただ、私は、この時点ではまだ人間イエスは覚醒していなかったと思っている。「両親に仕えてお暮らしになった」とあるが、別にそんな大げさなことではなく通常の親子の関係の域はでていなかっただろう。

毎年エルサレムに旅行していて神殿に出入りしていたとすると、やがて洗礼者ヨハネの噂は耳に入ってきただろう。青少年イエスにとっては、神殿の教師との問答で学ぶ知識と、洗礼者ヨハネの行動のギャップの中で、自分はどう生きるのかを考えたのではないだろうか。ヨハネは長い衣を着た人に会いたければ神殿に行け、しかし、そこに見出すのは多くの詐欺師だという意味の主張をしていた。それは、今も変わらない。本物もいるかも知れないが、人間が真実に向かい合う力の強さには限りがある。

今日の箇所で、福音のヒントの言葉の解説はとても参考になった。

ちなみに、ルカ伝の記述が創作であったとしても、それはそれで良いだろう。入り口を入りやすくしておかないと中に入れないからだ。福音書が一巻にまとめられなかったのは、示唆に富む。そう言えば、旧約聖書のモーセ五書も同じ事象が複数の書物で同じ事象を扱っていて解釈が異なっているケースはある。

福音のヒント(4)で触れられているが「母はこれらのことをすべて心に納めていた」はマリアに限らずすべての親に共通なものだろう。愛は、すべてを心に納めることから始まるのかも知れない。