flexicurity

2022年1月1日の日経新聞に「フレキシキュリティー 失業給付と就労支援、一体で」という記事が出ていた。Wikipediaでは、「フレキシキュリティ(英: flexicurity)は、福祉国家における積極的労働市場政策モデル。 1990年代に社会民主党のデンマーク首相ポール・ニューロップ・ラスムセン(デンマーク語版)により、柔軟性を意味するflexibilityと安全を意味するsecurityを組み合わせた造語。 流動的な経済における労働市場の融通性と、労働者社会保障の二つを組み合わせた政策を指す」と書かれている。

セキュリティという言葉には、安全保障の剣呑なイメージがつきまとうが、このコンテキストではセキュリティが社会保障を意味している。Flexibilityの方は、実質的に雇用流動性を意味している。現時点で、私はこの方向性の選択に強く共感する。

競争は必要だと思っているが、競争に参加できる機会を極大化しなければ山は高くならない。雇用流動性を高めなければ、新しいものが生まれても育たない。聖書に「茨の地に落ちし種あり、茨そだちて之を塞ぐ」という言葉があるが、これは既得権益が強く働く環境では新しい良いアイディアが日の目を見ないという教えでもある。従属を選ぶほうが手っ取り早くて安定するように誤解してしまうのだ。茨は手強い。ほんのちょっと除草に手を抜くとあっという間に育って可能性を削いでしまう。今ある雇用を守るのは衰退の道で、より世の中を幸せにする器に潜在能力が自然に移るようにすることで経済成長に向かうのは間違いなさそうに見える。社会保障が弱ければ、挑戦者が減る。一方で、社会保障が高まれば、フリーライダーは増えるだろう。私は「君たちは、世の中を良くするために生まれてきた」と言った教師の言葉を忘れることができない。自分がフリーライダーに堕ちているのではないかと、しばしば自問する。

現実には、いかに似ていようとも、昨日と同じ今日は決してこない。かならず変化する。決して、過去は戻らない。

※画像は、2013年のコペンハーゲン