旗を多く目にするのは苦痛だ

今、ウクライナの国旗が溢れている。少なくないロシアの人もウクライナの旗を掲げたりペイントしたりして、応援を表明している。私から見えている世界では、プーチンへの批判は激烈だが、ロシアには平和を求める人が多くいることが信じられていて、必ずしもロシアに住む人をロシア人として差別するような動きにはなっていないように見える。しかし、ロシアの外では、ロシア語を話す人、とりわけロシア語しか話せない人はかなり肩身が狭い思いをしているだろう。いじめも起きる。

最近は権威主義国という表現が使われることが多いが、言論を弾圧する傾向の強い指導者は旗を大きくする傾向があると思っている。権力あるいは権威の象徴なのだろう。そして、人は旗に煽られる。

冒頭の画像は、フィンランドとロシアの国境で2008年に行った時のものだ。怖かった。このゲートの向こうには全く別の世界があると感じた。しかし、かつての東ドイツやポーランド、ハンガリーやバルト三国に行くと、時にソ連時代の名残は感じるが、それでも明らかにあのゲートのこちら側と感じられる。東側の人として見ていた人たちが暮らしているけれど、接してみるとほとんど人間は変わらない。1987年に始めてミラノに行った時に差別を感じてショックを受けたこと、1992年にフランスで差別されたと感じたようなことは、シェンゲン協定からしばらく経ってからは、ほぼ感じることはなくなった。むしろ、イギリスやアメリカの方が印象は良くない。恐らく、人の移動の自由が保証され、その意味での国境がなくなると人間の行動や感覚は変わるのだ。最初は恐る恐るでも、相互の接点が増えれば、地域間や人種間の差異がそれほど大きいわけではないことを肌で感じるからだろう。EUが人権重視指向かつ多様性尊重指向である影響も出ていると思う。

ただ、どこに行っても、旗が掲げられている時、そこにいる人達の顔が変わってしまう。ある人は国民であることを意識し、ある人は自国でないことを意識する。大抵、笑顔は減ってしまう。そこに断絶を感じるのである。

しばらく前には、ルカシェンコの弾圧を見てベラルーシの人と共にと旗を掲げていたこともあった。しかし、そういう熱の多くは割とすぐに冷める。多分、国の壁をもっと下げないと共存は難しいだろう。NATOはともかく、EUに入らないと問題は解決しない。逆に、プーチンには耐え難いだろう。歴史観にこだわりを持って正統性を主張することは本質的に後ろ向きなことで、時代の変化に向かい合うことが難しい。

ベラルーシ、ミンスクには2019年に行った。2020年8月のデモ前のことである。

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リトアニアやラトビアの隣のヨーロッパの街だがかなり貧しさを感じた。自由の有無が人の活力を左右しているように感じられた。なぜかはわからないが、教会の前で会堂に入らずに祈っている人を何度も見かけた。かなり多くの人が教会を通り過ぎる時も、その前で十字を切って祈りを捧げて通り過ぎる。その頻度は、明らかに西側の街より高い。自分の力ではどうにもならない無力感があるのだろうか。もちろん、どこであっても誰であっても自分の力では容易に解決できない重要な問題はある。しかし、何とか自分の力で解決しようと思い、動いている人は信仰は失っていなくても相対的に見れば神に頼らない。

バルト三国の元気は見えているし、人の行き来はあるから、恐らく遠くない将来にベラルーシも民主化は進むだろう。ロシアも時間の問題だと思う。移動の自由と基本ルールの標準化が鍵だ。過去の栄光にすがるよりは、変化を受け入れて前を向いたほうが笑顔は増える。生きているのは同じ人間で、1日では行動は変わらないが、1年から3年あれば価値観は変わる。自由と経済成長が人の顔を明るくする。

一方で、フランスやドイツなどで壁を高くしたいと思う人が少なくないのが選挙結果に現れている。ヨーロッパでも、自分たちだけの世界を作りたいと思う人はいるのだ。だからこれからどうなっていくのかは分からない。ただ、予想できるのは、私はそういう地域に行ったら居心地が悪いだろうということだ。一時は望みがかなっても、外から人が入ってこなくなれば、街は淀んで衰退してしまうだろう。次にイギリスがEUに入る時は、シェンゲン協定とペアで考えることになると読む。

私は、旗が掲げられる回数が少なくなる未来を望む。標準ルールは高品質な方が良く、国家主権は小さい方が良い。

ちなみに、日本はかなり旗を意識させる国である。明らかに外国人を別扱いするし、与党政治家が権威主義的で上下関係にこだわる。プーチンの戦争をロシアの戦争と認識してロシアの人を敵として見てしまう人もいる。国民の意識の開き方が足りていないのだ。石原の影響も大きいと思うが、安倍政権より前はもう少し日本は開いていたと思う。中国の人たちの行きたい国の一つだった。入管問題などもあり、今は外国人の人権を尊重しない国として知られるようになってしまっている。開いていない国は仲間になりえない。ただ、だれでもトイレが徐々に普及していることを見ると、遅々とした動きではあるが、多様性を許容する方向に向かっていると考えたい。