国と宗教、そして歴史観

今日、エレミヤ書4章を聖書箇所とした説教を聞いて考えさせられた。

検索してみると改革派の牧師が、その箇所を記事(8.エレミヤ書4章5-31節『北からの災い』)にしていたので読んでみたら少し理解が進んだ気がする。「主の審判の前には、どの様な人間の対策も手段も及びません」と解説しているところに侵略戦争に直面したのは天罰だという価値観がある。エレミヤあるいは旧約聖書編纂者の史観と考えて良いだろう。ただ、旧約聖書は罰を強調するが、戦争を避ける方策は示していない。権力指向な書物である。

侵略戦争の被害者となるのは、神への配信の罰だという考え方はわからなくはない。逆に、自国を神の国と考えると、本来勝てないとおかしいということになる。ユダヤ教は今も生きていて、イスラエルという国家は取り戻されている。本当にそれはイスラエルなのかという疑義はあるが、現在の国際ルールでは多くの他国から国として認められている。国として認めない勢力もある。

大戦後、ソ連の崩壊をもって局地的な紛争以外の戦争の時代は終わったと思っていたが、ウクライナ戦争はその甘い期待を根底から崩すものとなった。戦争の時代が終わっていなかったという前提に立って考えれば、アメリカが力による現状変更を行った事例は複数あるし、思い切って捨象すれば、アメリカによる世界の支配の時代にあったと言えないことはない。そして、イスラエルとアメリカの関係には必ずしも適切と言えないようなことはあると思う。

今日のテレビで日本語を話すウクライナの人が、国連もNATOもEUも機能していないと憤っていた。ウクライナは独立国として認められていて、各種の同盟関係を結ぶ自由はある。適切な手順を踏めば、EU加入もNATO加入も自由である。また、国際ルールに従えば、ロシアによるクリミア併合はありえない。ありえないことを武力で無理やり飲まされたのだから、助けてくれと考えるのは理にかなっている。しかし、欧州諸国は同盟関係の締結を行わなかった。ロシアの力に屈したと言って良いだろう。では、正義とは何か?

欧州諸国は、基本的にキリスト教国と言って良いだろう。政教分離は一定のレベルで進んでいるが、基盤となっているのはキリスト教的な価値観にある。ロシアも東方教会の影響力は大きく、分類すればキリスト教国に入る。米英もキリスト教国だがかなり簡単に戦争の引き金を引く。キリスト教は世界を平和にできない。

キリスト教は旧約と新約という考え方に立つ。イエス前とイエス後でフェーズが変わったと捉える。エレミヤ書の時代は旧約の時代で、神の国イスラエルが内部崩壊によって神の罰をうけるという考え方に立つが、新約の時代は神の国は民族に限定されないとする。深読みすれば、神と人の間に国はいらないとしたともとれるが、少なくとも2000年前には現実にあわなかった。教えは、脱権力指向なのだが、人間は変われない。

国の中でも、現実的には力による支配でなければ治安は保てない。個々人の武装解除と政府による武力の独占があるから犯罪が抑止できる現実を否定することはできない。一方で政府による武力の独占は弾圧と紙一重である。武力行使の範囲を限定するためにルールを進化させてきたが、完成には程遠い。

支配欲には勝てない。様々な制約を課しても必ず破って独裁を目指す人や集団が現れてしまう。

結局の所、誰かに権限が集中しない制度を模索するしかないのだろう。安保理覇権国の廃止は最低限必要だと思う。あわせて国家から武力を切り離す道を探る必要もある。

手始めに、キリスト教会や教団は、リーダーの任期を最長10年に制度化して範を示したほうが良いと思う。自由を守るために規制は必要だ。直接的にウクライナ戦争の集結に貢献するのは容易ではないが、自分達が邪悪になることのないように一歩を踏み出すことは可能である。