今日、オンライン礼拝に参加していて、2つ印象的なことがあった。
一つは、司会者の祈りでプーチンが十字を切って祈るのを見て同じ神を信じながらなぜあんなひどいことができるのかと嘆いていたこと。もう一つは、金井美彦氏がいろいろな宗教があると言明する時、自分を絶対化しているのだと述べたことだ。
司会者とは長い知り合いであり、尊敬している人だ。私は、彼女と同じ神を信じていると思っていて、神のもとで共に歩みを進める先輩であり、僭越ながら友だと考えている。
プーチンがやっていることはとても理解できないが、彼は心の内で、本心から自分は正しい道を歩んでいると思っているかも知れないし、神が自分に命じていることをやっていると考えているのかも知れない。人の心の中は他人は知り得ないので、本当のことはわからない。私が思うのは、彼の決断が人の命を奪っている事実から私の神はそのような声を下すとは思えないということだ。ただ、私にはプーチンは私と同じ神を信じていないと裁くことはできない。その行動は批判するが、人を裁くのは違うと思う。
自分を絶対化するという話は示唆に富む。考えてみると、人はだれでも自分を絶対化せずにはおられないのだと思う。自分の意志で判断する以外の道はないからだ。誰かの主張に従うというのも意志だし、権力者と異なる行動を取るのも意志だ。無意識の判断もあるが、全てを無意識で判断することはできない。必ず、自分の頭で考えなければ行けないシーンは来る。
自分の頭で考えるということは、自分の神の声を聞くということであり、その声を聞いた上で、神の声に従うという判断もあれば、神の声は違う指示をしているが、自分の意志でその声とは違う判断をするという選択肢もある。結局は自分で考えるしかない。
聖書や教会は自分が正しく声を聞けているかを検証するためには有効なツールになる。しかし、聖書の記述に不整合な箇所はたくさんあるし、教会の教えも揺らぐ。聖書を字句通り解釈して裁きを行えば、現代社会は成り立たない。
教会は同じ神を信じるものが集う場所である。神学もカテキズムも神の声を正しく解釈して共に歩みを進めるための人間の営みだ。神学は批判的アプローチを取っても真実は揺るがないという信仰の元になりたっていて、カテキズムは問答無用に秘跡と決めてしまうが公会議で修正する。間違えを犯しても正しい道はやがて示されるという信仰の元になりたっている。
現実社会では、どうやって戦争を止めるか、どうやって新型コロナに殺されないようにするかという課題に取り組まないわけにはいかない。祈っているだけでは課題は解決しない。祈る以外に何もできないと感じることもある。声を上げることすら危険な環境もある。
私は、自分の絶対化は避けられないと思う。それを前提として、自分に聞こえる声を自分の考える優先順位に沿って実践していくのが好ましいことだと思う。今の戦争を止めるためになれること、感染症の犠牲者を減らすためにできること、教会を専制と隷従の場に落とさず真実が守られる場所にするためにできること。他の人と意見の食い違いは出るかも知れない。それは悲しいことだし、辛いことだが、もし大事なことだと思うのなら、信じる道を行くしかない。
一点だけ守りたいと思うのは、意見の違いや行為を批判するとしても、人を裁いてはいけないというイエスの教えだ。プーチンを悪人とか人でなしとして排除しても、それでは次の同じような問題が繰り返されるだけだ。そうではなくて、犠牲者がでないような社会システムを作る方向で動かないとつまらない。ただの絶対化は自分を神とするのと等しいが、人を裁かずに社会システムの改善を模索すれば、自分に権威は残らない。自分に権威を留めようと考えてしまって成功するとそれは専制の始まりとなる。自由が獲得できたら維持可能なルールを作り上げた上で、速やかに得た権力を放棄しないと腐ってしまう。
ウクライナに自由がもたらされたら、できるだけ速やかにEUに加盟し、国家主権を小さくしていくべきだろう。そして、再び軍縮に力をいれる必要もある。キーは、情報の非対称性の解消にあると思っている。隠し事はやがて育って人の命を奪う。隠し事ができない方が悪さは困難になる。