新生活95週目 - 「マルタとマリア」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第16主日 (2022/7/17 ルカ10章38-42節)」。印象的な箇所だが、並行箇所はない。ただ、マリアとマルタの関連箇所としてヨハネ伝11章があり、ラザロの姉妹としてが出てくる(https://biblehub.com/luke/10-38.htm)。福音のヒント(4)でも言及されている箇所だ。

福音朗読 ルカ10・38-42

 38〔そのとき、〕イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。39彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。40マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」41主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。42しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

ヨハネ伝12章2節でも「マルタは給仕をしていた」とある。このあと3節でマリアがナルドの香油をイエスの足に塗る。ルカ伝でもマルタがイエスを家に迎え入れたとあるが、ヨハネ伝でもマルタが最初に迎えに出ている。人物像としては、マルタは愛情に溢れた働き者と感じられる。イエスのことを信じて尊敬していたように読める。だから、気持ちよく過ごしてもらうために働いていたと考えるのが自然だろう。一方、マリアは働かずにイエスの話を聞いていたし、ヨハネ伝では高価な油を使っている。働き者のマルタには高価な油を使うことは容易には想像もできなかったのではないだろうか。

世の中はマルタのような人の存在で回っている。気遣いをして、良く働き、人々を幸せにする。男女に関わらず気遣いのできる働き者は社会の宝だ。自分もそうなれるものならなりたいと思う。一方、相対的に見て働き手としては劣り、周囲を配慮せずに勝手な行動を取る人もたくさんいる。マリアとマルタは姉妹だから、比較されることもあっただろう。マリアとマルタって違うよねと言われていたかも知れないし、マリアとマルタはお互いに違いを意識することもあっただろう。お互いに嫌だなと思う瞬間もあるだろう。

ナルドの香油のシーンでは、ユダがマリアの行動を非難しているが、ひょっとしたらマルタも内心では不愉快に思っていたかも知れない。ユダは裏切り者のイメージが強いので、先入観をもって読んでしまうが、真面目で有能な働き手であった可能性が高いと私は考えている。そうでなければ、財布を任せることはなかっただろう。律法学者のイメージとも重なる。

イエスは「マリアは良い方を選んだ」と言った。マルタはイエスに「マリアは良い方を選んだ」と言われた。これはかなりキツイ現実だと思う。

人生には何度も決断の時が来る。小さなものもあれば大きなものもあり、その時の判断がその後の人生を左右する。どれだけ日頃丁寧に生きていたとしてもここ一番で判断を誤ればそれまでの全てが台無しになることがある。どれだけ一生懸命に生きていたとしても判断過ちを犯さないで生き抜ける人などいない。同時に、判断ミスで台無しになったと思っても、それで全てが決まってしまうわけでもない。この後、マリアが幸せな生涯を送り救われたか、マルタが幸せな生涯を送り救われたかはわからない。「マリアは良い方を選んだ」はきついメッセージだが、マルタはそのメッセージを受け取った後の新しい人生を生きただろう。ある意味でそれだけのことだ。マリアはイエスの話に聞き入っていた。そのメッセージを受け取った後の新しい人生を生きた。「マリアは良い方を選んだ」は、マリアはマリアにとって良い判断をしたととっても良いし、マルタにはそれ故「それを取り上げてはならない」と言ったと取ることができる。とり方によっては、ひとりひとりの判断は尊重されるべきもので姉妹であっても相手の判断を尊重しないといけないとも取れる。

マルタは社会の規範と同一視することもできる。福音のヒント(2)で当時の常識に触れて記事の解釈を行っているが、望ましいと思われている行動規範に準じるだけでは奴隷は奴隷のままだ。そうでない判断を行う者がいても良いというメッセージととっても良いだろう。あるいは「それでも地球は動いている」と言って良いというメッセージととっても良い。天体観測を極めて真理に気がついたなら、異端視されたとしても真理を伝える側に生きて良い。それが常識に外れているかどうかは関係ない。

福音のヒント(3)で「ついつい他人との比較の中で自分を見てしまうわたしたちにとっても解放のメッセージ」とあるのに共感する。我々は、日々、他人と比較しながら生きていくしか無い。多数派は秩序を壊すものを裁き、排除してしまう傾向がある。男性中心社会の維持とか、政治権力の維持とか、序列化とか。そういった秩序は、社会の安定に寄与する面がある一方で割を食う人を生む。人はそれぞれ複数のコミュニティに属するから、あるコミュニティでは割を食う側で、あるコミュニティでは守られる側にいることもある。常識から外れた決断に対し「それを取り上げてはならない」は福音である。

「必要なことはただ一つだけ」は、その時、その人にとって必要なことはただ一つの選択で、それはマリアにとって必要なこととマルタにとって必要なことが同じであることを意味してはいないと思う。

※画像は、wikimediaから引用させていただいたフェルメールのマルタとマリア。スコットランド・エジンバラにあるらしい。エジンバラは、35年前に初めての海外出張の時に、急な日程変更で行った街。車を差し回してもらったため、街の印象はあまりないが、可能なら再訪したい街の一つ。次に行く時にはEUの国になっているだろうか?