新生活98週目 - 「目を覚ましている僕」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第19主日 (2022/8/7 ルカ12章32-48節)」。この箇所も平行箇所がないが、個々の節には、共観福音書に類似と感じるものがある。例えば、40節の「人の子は思いがけない時に来る」はマルコ伝13:32の「その日、その時は、だれも知らない」を想起させる。

福音朗読 ルカ12・32-48

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕
 32「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。33自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。34あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。
 35腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。36主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。37主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。38主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。39このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。40あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
 41そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、42主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。43主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。44確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。45しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、46その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。47主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。48しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」

福音のヒントの「教会暦と聖書の流れ」に「ルカ福音書で、イエスのエルサレムに向かう旅の段落(ルカ9章51節~19章44節)が続いていますが、この中で、ルカはイエスのさまざまな教えを伝えています。」と書かれている。ガリラヤからエルサレムに向かう道を進む時に人間イエスは自分の死を意識していただろうか。もし、意識していたとしたらその前に言葉を遺そうとしただろう。そういう見方をすると、この箇所は告別説教にも読めてくる。

「父は喜んで神の国をくださる」はどういう意味だろうか。死んだ時に天国に行けるという意味だろうか、それとも生きている時に幸せになれるという意味だろうか。「自分の持ち物を売り払って施しなさい」をどう捉えればよいだろうか。

災害が起きた時には、寄付が集まる。ボランティアも現れる。生きていくのに助けが必要なシーンで施しがなされれば、命を救うことになる。経済的に困窮している人も助けを必要としているし、病を得ている人も助けを必要としている。他の宗教でも施しは推奨されている。愛の具体的な形と言えるだろう。自分の持ち物を売り払って持たない人を救うことはできるかも知れないが、自分の蓄えは減る。蓄えがなければ、ちょっとしたことで困窮して他人の助けを借りなければ生きていけなくなるかも知れない。イエスが目の前に現れて「自分の持ち物を売り払って施しなさい」と言ったとしたら、不動産や金融資産を供出するだろうか。自分の生活水準が低下し、ひもじい思いをして家を失っても幸せになれるだろうか。その結果、早死しても天国に行けて幸せなのだろうか。まあそう思う人もいるかも知れないが、何か変な気がする。

聖書の記載を2,000年前の遠いところの話として読めば読めても、自分ごととして読むと簡単にそうですねとは言えない。

一方で、自分が今生きているということは、まだ何か施す余地があるということだ。どれだけ苦しい状態でも、その施しによって救われる他の生命があるかもしれない。ただ、働くなりして生産的な活動ができなければ持続性はないから、ギリギリの人は自分のために使ったほうが合理的だろう。人生の終わりが見えていれば、全部寄付しても困らないが、まだ生きていくのであれば全部差し出すのはどう考えても現実的ではない。自分が生きていくために必要な資産と、備えとしての資産。何らかの生産活動による収入と生活による支出で資産は増減する。収支がプラスなら、それを施しに当てれば持続性があってかつ施しもできる。

現実に照らして考えれば、贅沢なことはやめて節制した生活で余剰を出し、それを寄付すれば良いのだろう。至極当たり前の話になる。借金があればいずれ返さなければいけないから、それも考慮しなければ持続性はない。大きすぎる余剰資産があればそれは売り払って施したら良いだろう。でも、例えば道路を整えるとか、ダムを作るとか、開墾するとか、投資した方がより多くの命を救うことになるかも知れない。目の前の困っている人を助けることと環境を整えることを単純に比較することはできない。天に積む富は施しであるとは一概には言えないと思う。

もちろん、施しを否定するわけではないが、生きていける人を増やし、幸せを増やすために資産を含め持てる力を出しなさいと読みたい。そして、良い業を尽くしている時は、その人は幸せだ。それが「父は喜んで神の国をくださる」の意味と考えて良いと思う。そう考えると、神の国はこの世に存在し、しなくなり、また来たりするものとなる。

無理をして施しをしても幸せにはなれない。恐らくそれは天に積む富ではない。

教会は献金を集めて、人件費を含め維持経費を落とした上で、良い業を行う責任がある。ボランティアワークのために信徒の時間や能力も使う。個々の人には自分が行う寄付の適切な使い方も、力の発揮の仕方も清かにはわからない。だから、教会という組織を介して間接的に良い業を進めていくことになる。ただ、金や力が動くところには必ず誘惑がやってくる。腐敗は迫ってくるのだ。例外はない。

「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」の富のありかが教会の中に留まっていてはいけないのだろう。教会が福音を伝え、社会に良い影響を与える神の国の到来の瞬間が増えることに心があれば、神の国に富を積んだということになると私は思う。福祉に思いを尽くすということだ。

いろいろな形がある。祈って学んで自分で考え尽くして、自分の道を歩むしか無い。選んだ道が隣の人と違うケースはあるだろうが、自分で決めるしか無い。

献金それ自身は天に富を蓄えることにはならない。教会の指示に従って何かをやることは必ずしも天に富を蓄えることにはならない。

「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」は、私達それぞれが自分の富をどこに溜めようとしているのか問われていると受け取る必要があると思う。私は、閉じられたコミュニティに心があってはならないと考えている。

新共同訳では35節の前に「目を覚ましている僕」という見出しがある。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。」で始まるこの部分は、主人がいない時であっても、準備を整えておきなさいという教えだろう。福音のヒント(2)のいい加減に生きていてはいけないという警告のメッセージにつながるものだと思う。いい加減に生きている状態よりは、準備が整っている状態のほうがその人は幸せな状態ではないだろうか。今が行動の時でなかったとしても、行動の時が来た時に後悔しないように備えるのは、天に富を蓄えることでもあるのだろう。有事への備えは不幸の最小化を実現する可能性がある。今がその時でなかったとしても、決して無駄ではない。

国は、税金を集め、国によっては徴用によって意思を持った行動を起こす。道を作り、様々な投資を行う。徴兵で防衛や侵略に当たらせることもある。日本であれば自衛隊は日本国民のための「目を覚ましている僕」である。警察も消防もそういう側面を持っているだろう。個々の要員は必要な時に準備が整っていることが求められる。有事は起きないと思っていても起きる時には起きる。日本は現憲法の制定時に「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意」した。戦争は政府の意思を持った行動で始まる。主権者が目を覚ましていないと再び戦争の惨禍が起こるかも知れない。警察の組織が傷めば公正は守られなくなる。政府が傷めば医療機関は機能しなくなる。不幸が多くなってしまう。

有事はいつどんな形で起きるかわからない。予想できることは備えておくとしても、予想を超えるような事は起きる。教会や国に金や力を預けて運用させるとしても、その健康状態を監視し、改善するのは構成員のもう一つの使命である。嘘や誤魔化しのない状態は少しの油断で失われてしまう。そして、愛が外、多様性の受容に向かわなければ神の国は来ない。外に迎えば、神の国が来ている場所と時間が増えていく。個も、集団も健康に気をつけて外に向かって亀のようでも一歩づつ進んでいくのが良い。

※画像はwikimediaから引用したプラド美術館のルーベンスによるペトロ。彼は解釈を求めたが、直接的な答えは与えられなかったように読める。「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」はこの世の現実で、傷むリスクも傷んだ場合の影響も大きい。そして、召し使いも人間で上司の指示に従うだけでなく、道を踏み外す事の無いように動くことが求めらることもある。ペトロは誠実性をどの程度守れたのだろうか。今、各個キリスト教会は愛の業を実践できているだろうか。目を覚ましているだろうか。組織の維持に汲々としているだけでは存在意義がない。