新生活99週目 - 「分裂をもたらす」

hagi2022/08/14(日) - 07:53 に投稿

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第20主日 (2022/8/14 ルカ12・49-53)」。マタイ伝10:34は平行箇所ととって良いと思う。

福音朗読 ルカ12・49-53

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕49「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。50しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。51あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。52今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
53父は子と、子は父と、
 母は娘と、娘は母と、
 しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、
 対立して分かれる。」

福音のヒントでは「この「火」は一方では神に反するものを滅ぼしつくす「裁きの火」です」とあるが、私はむしろ革命をイメージした。2000年経過しても変わっていないと思うのは、権力には腐敗がつきものだという現実で、イエスに火を感じるのは宮清めのシーンだ。暴力的な行動は他に思いつくシーンがない。

専制と隷従にあらがって、自由と公平を求めて人々が立ち上がった事例はたくさんあり、体制が転換したことも数え切れないほどある。しかし、なぜか持続性はない。キリスト教国が生まれても腐敗は生じたし、宗教改革が起きても理想社会は実現できなかった。この箇所をそのまま読めば「受けねばならない洗礼」は十字架による死を意味すると考えるのが自然だろう。人間イエスは、その向こうに理想社会の実現を見ていたのだろうか。

ペンテコステで火がついて、革命は始まった。愛をもって道を真っ直ぐにせよと言う声は何度も響き、前進した部分は多々あるが、その道は遥かに遠い。なぜだろうか。

人によって真っ直ぐに見える道は異なる。父が見る歩むべき道と子が見る道は異なるし、母娘も完全な一致などない。正しいと思うことを目指せば、必ず意見は食い違う。親しい者さえも信じることができないという状態と考えることもできるが、むしろ対立は本質的なもので、それを肯定的に捉えなければいけないと読んで良いと思う。意見が対立して別れたとしても愛が冷めるとは限らない。別れた道は再び合流することもある。

福音のヒント(5)で「ただ、神の国を求めなさい」につながるとあるのに共感する。言い換えれば理想社会を目指せということで、一人ひとりが考える神の国は全てが一致することはない。しかし、考えを異にする人に対しても、生命と健康が守られることを願うのが愛の基本であろう。人の気持の優先順位は時とともに変わる。家族から夫婦に、夫婦から親子に優先順位が変わることは自然なことだし、家族や夫婦に関わらず愛が向かう方向は自分でも制御できるとは限らない。男女を基本に考えることも科学的に適切とは言えないことも分かってきている。

ここで疑問が生じるのは、教会の位置づけだ。教会員は、教会や教団に対して、正邪の基準を求める。教会はそれに答えてきたが、硬直的に同性愛を犯罪扱いにしたり、中絶を殺人扱いにしてしまうと自分が神の国に向かう真っ直ぐな道だと思う人を排除してしまうことになる。とは言え、なんとかして確からしい回答を準備しないわけにはいかない。

教団ができるのは、教育・研究と認証制度だろう。神学校を立ち上げ、教師として必要な知識を学習させ、一定のレベルに到達していることを認定するのが常道と思われる。真理の探求には金がかかる。時々、科学的なブレークスルーが起きる。地動説の合理性が明らかになった時には、常識が書き換わった。疾病のメカニズムが分かった時には呪術的な手法は邪なものになった。

ちなみに東京神学大学のホームページを見ると以下のように書かれている。

理念・目的(東京神学大学学則第3条に拠る)

東京神学大学は、学校教育法第83条に基づき、キリスト教神学を研究し、福音の宣教に従事する教役者を養成することを目的としています。そのために、その基礎となる、幅広い知識と専門知識を教授することを目指します。
同時に、キリスト教会のみならず、キリスト教学校やキリスト教施設等に専門的知識をもって仕えることができる信徒を養成することをも目指しています。

「福音の宣教に従事する教役者を養成することを目的」は実態としては、教派、教団によって差異が出る。

この歳になって東京神学大学のシラバスを読むと、良いなと思うことと足りないなと思うことが見えてくる。「幅広い知識」は現代科学と矛盾するものであっては困るが、東神大で現代の教役者に必要な常識的な知識を得ることは困難だろう。聖書や歴史に関わる講義が網羅しているかどうかはともかく、修士、博士課程を含めシラバスに書かれているような指導を受けて知識を身に着けた人に教会での教師を勤めてもらいたいと思う。一方、知識を身に着けていたとしてもそれで教師が勤まるとは思わない。いくら知識があっても、砧教会の金井美彦氏のように事実に向かい合えないような状態では困る。教会の説教も大学の講義も人間が担当するものだから、必ずバイアスは入る。バイアスが入るのは避けられないから、様々なレビューの構造を作り、真実と異なる教えが広まらないように工夫する。福音(Good News)に嘘の知らせ(Fake News)が含まれないようするためだ。一方、100人中99人がFakeだと言っていたとしても、その残りの1人が真実を主張している可能性がある。だから、レビューシステムも完全ではない。

今日の箇所に戻る。いろいろな家族はあるが、ほとんどの関係で愛はあるだろう。親子で信仰が異なれば諍いは起きるだろう。信仰を家族の関係に優先させれば分裂が起きるのは必然である。また、信仰を家族の関係に劣後させれば自分の中にある真実の声を押さえつけなければいけない。真理を目指すなら、分裂を恐れてはいけない。その道が真理に続くものであれば、いつか再び愛する人と合流することになると信じるしか無いだろう。一度分かれたとしてもそれは終わりを意味することではない。

研究は、真理の探求である。研究の過程で生じる間違いは避けられないし、その時点では発見されていなかった事実や法則により過去の研究は修正されたり否定されたりする。それはそれで良いのだ。むしろ、研究者や研究者グループあるいは教師に権威や権力を集中させてはいけないのだろう。文書化された過去の説教は今も将来も影響力を及ぼすことがあるが、知見が変われば通用しない部分も明らかになる。それもそれで良いのだ。世はうつろう。その時の知見に基づいて、必要な時は火をつければ良いのだろう。人を生かす火を静かに燃やそう。

※画像はwikimediaから引用したアレクサンドリアのクレメンス。初期の神学者で最古の神学校で教鞭をとったとされているようだ。真実を求めると分断が起きるのは、常なることだった。