新生活100週目 - 「狭い戸口」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第21主日(2022/8/21 ルカ13章22-30節)」。気がつくとこのシリーズも100回目となった。事件発生からは既に2年が経過したが、全く解決していない。委細を記したブログ、私の約50年間の砧教会との歴史はこうして終わったに記した通りで、現在訴訟を起こして係争中である。それはともかく、毎週の学びに集中する。今日の箇所にも並行箇所はない。

福音朗読 ルカ13・22-30

 22〔そのとき、〕イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。23すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。24「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。25家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。26そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。27しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。28あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。29そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。30そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

最初の「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」は、まっすぐエルサレムに向かったのではなく伝道の旅だったということになる。人間イエスは、その時々に教えた人たちと生きて再び会うことはないと考えていただろうか。biblehubを引くと参照箇所にマルコ伝6:6「イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった」が出てくる。この箇所は「ナザレで受け入れられない」の最後の部分である。ルカ伝では、時系列的にはサマリヤを通った後の話なので、マルコ伝の箇所とは違う話だと思うが、ちょっと気になるのは聞き手は来て去っていく人の話と、そこを拠点としている人がする話は受け取り方が違うだろうという点だ。仮に奇跡を起こし続けたとしても飽きられるだろうし、いろいろな劇的な変化が起きたとしても社会は短期間では変わらない。どの新しい場所に行っても「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と聞く人はいるだろう。しかし強い関心がある問いを繰り返し聞くことはない。

「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」は根底的には自分は救われるのかという問いだろう。24節からはマタイ伝7:13の「狭い門」と良く似ているが、宴席が救いに例えられているので私にとっては「命に通じる門」ほどのインパクトはない。

「神の国」のイメージは、自分の行いで行けるかどうかが決まると考えるか、神は招いているが招かれていることに気がつけるかどうかで行けるかどうかが決まると考えるかで変わる。もう一つの軸は時間。「神の国」は死んだ後に行く極楽浄土のようなところか、今のことを意味するのかで変わる。

福音のヒント(2)には「非常に多くの人がそこに受け入れられているイメージ」とあるが、個人の視点に立てば自分が入れるかどうかが問題となる。ついで自分の愛する人達も共にそちらに入れるだろうかが問題となる。自分の知らない人がいてもいなくてもどうでも良いというのが本音だろう。だから、人数あるいは比率など本質的には問題とならない。むしろ、「金持ちの青年」の問いのほうがずっと直接的で好感が持てる。

死んだあとのことはわからない。福音のヒント(4)の「イエスは神の国に入る資格があるというより、イエスの中に神の国がもう実現しているのです。今神の国を生きること、そして最後まで神の国を生き抜くこと。このイエスの生き方は、人間的な計算に基づく生き方ではありませんでした。」の「今神の国を生きること、そして最後まで神の国を生き抜くこと」に共感する。死んだ時に天国にいくというゴールに向けて仮の人生を生きるのではなく、今神の国を生きることが本質なのではないだろうか。神の国に入るために自分の思いと違うことでも我慢するのではなく、よろこんで善いことができるのが神の国を生きることだろう。

人生には耐え難いことも起きるが、福音のヒント(5)にあるように「わたしたちの心のもっとも深いところに働きかける神の呼びかけに従うこと」以外にできることはない。

聖書を読む人は、誰も社会が理想郷だとは思っていない。せいぜい周りを見回して相対的に幸せや不幸を感じる程度で、この世に「神の国」が実現することも信じられない。しかし、イエスの教えに真理があるのではないかと期待して読む。ひょっとしたら天国があるのではないかと期待するし、信者の行動を見て憧れたり失望したりする。しかし、本当のことは誰にもわからない。私は「あなたはこの世を良くするために生まれてきた」と神から呼びかけられていることに気がついた時に「わたしはこの世を良くするために生き抜きます」と決意して宣言するのが洗礼式の意味するところだと考えている。そして、苦しい時、道に迷っているのではないかと感じたときにはその時のことを思い出すようにしている。

私は、神は全ての人を「神の国」に招いているのだと思っている。そうだとすると「誰ひとり取り残さない」社会を目指さなければいけない。同じ集団に属しているかどうかで差別されるようであってはならないし、集団の結束を守るために事実を曲げてはいけない。それがその時正しいことのように見えたとしても、例えそれが孤立を招くとしても「わたしたちの心のもっとも深いところに働きかける神の呼びかけ」に従うしかない。ただ、本当にそれが神の呼びかけなのか、自分の欲望なのかはわからないのだ。手がかりは事実、「事」に求めるしかない。誰か、「人」を善人と悪人に分けてさばく考え方に立てばやがて戦いに向かう。多数派であること自身が凶兆と捉えるべきだろう。徒党を組まずに共に歩めればそれに越したことはない。バレた嘘を認められない人に権力をもたせるべきではない。

※画像は19世紀の「来世に至る3つの道」という絵。簡単にまとめれば、信仰に入らなかった人、入ったが正しく歩まなかった人、入って正しく歩んだ人という解釈だろう。こういう解釈は自然なのだけれど、私は天国に行くのがゴールという考え方に疑問がある。真実に基づかない徒党を組めばやがて血が流れるというこの世の教えと取ると、こういうイメージを受け入れることが広い道そのものだと思う。悪気の有無に関係なくイメージが与える影響は大きい。