少子高齢化時代の公平を考える

hagi に投稿

衰退期の経営は難しい。伸びている時は、投資する原資が供給されればそれを投入して超過利益を創出できる。しかし、活力が失われた社会では、金融緩和を行っても経済は活性化せず再生産は進まない。今の日本は正にそういう状態にあるが、北欧を先頭に欧州はその痛みを50年近く前から経験してきて、新たな道を探り、苦労しながら新しい日常を作り上げてきた。

私は今62歳で、公的年金の一部、私的年金を受け取りながら働いている。決して手を抜いているわけではないし、自分が若い時と比べても頑張る思いが減退している感覚は全く無い。しかし、若い人と比べれば競争環境は同一とは言えない。若い人が雇用主から20万もらうための働きを、20万から年金受給額を減じた額を受け取れれば生活は変わらない。単純に考えれば、若い人は重荷を負わされて走らされているのと変わらない。公平とは言い切れないだろう。

街を歩いていると、高齢者が運営している店舗が少ならからず目に入る。飲食店だと、古臭い感じはあっても味は悪くないし、価格も安い。既に一定の蓄えがあって、さらに年金のサポートがあれば相対的に安価にサービスを提供しても問題はないだろう。消費者視点ではありがたいが、若者の可能性を奪っているのは間違いない。悪い言い方をすれば、今のままの状態で人生を生き抜ければそれで良いと思っているということだ。社会全体の環境適応力を下げ、新しいことが生まれる可能性を潰している。個々人のQOLの追求が、社会全体のQOL向上施策と相反するのだ。安定は幻想だ。

では、どうすれば良いのだろうか?

高齢者が生きていけないような社会は望まない。しかし、子育てでお金が必要な若者の競争条件を悪化させるような制度もおかしいと思う。多分、資産課税と増税とユニバーサルインカムが解となるだろう。もちろん、良い方向に動いたとしても次の課題が出るから果てしなく模索は続く。

もう一つ気になるのは、生涯学習だ。先進国に追いつき追い越せと考えれば良い時期には、目標設定が比較的容易だから年限を区切った詰め込み教育は有効だったと思うが、一度先頭グループに入ってしまえば、そのやり方は通用しない。大きな会社で偉い人になるという物語はほぼ機能していない。一方、昔は本と徒弟制以外に成長の機会は乏しかったが、今はネットがある。何かを学ぼうと思えば、膨大な情報にアクセスできるし、自ら情報発信することも容易になった。学校に通わなければ知識がつけられないわけでもない。興味がわかなくて取りこぼした知識を大人になってから学ぶことも可能だし、会社という固定的なチーム以外に目標やLike mindedで別種のチームを組みことができる。教育機関のやり方も変わるだろう。

少ない子供がそれぞれ輝けるようになるために国や行政は助け手にならなければいけない。スピードもそれぞれ違うがそれを許容したほうが良いだろう。早く進めたほうが良い分野もあるだろうが、人生はそれほど短くはない。企業の教育と個人が自分の道を探っていくための学びは本来異なるものだから、雇用主に押し付けるのは現実にあわない。いくつになっても、社会貢献の道を模索して一歩を踏み出せるような環境があったほうが良い。人口減が進むなら、残った人口で共に生きる道を探らなければいけないし、高齢者比率が高まるなら、その構成で共に生きる道を探るしか無い。高度成長期の幻想にすがりつくことはできない。共同体の新しい形を探っていくしか無い。

年金で下支えを受けている人がどう社会に関わっていくかは少子高齢化時代の公平の形を模索していくこととつながっている。若者から奪うのでもなく、若者に奪われるのでもなく、共に生きていくために新たな道をみつけなければいけない。