私が20代の頃、職場で女性職員のお尻を触るような人を見かけるのはそれほど意外なことではなかった。子供の頃はスカートめくりは日常の遊びの一つで、もう止めてほしいと言われた時に悲しく思い、戸惑ったことを思い出す。今考えれば恥ずかしいことだが、少なくとも当時はそれが罪であることを認識することはできていなかった。
お尻を触られたって減るもんじゃないしっていう表現に多少の疑問を感じながらも、別に強く拒絶されない範囲なら良いじゃないかと軽く考えていた。
今考えれば、人権侵害だ。合意なく人に手を触れるのは、自己決定権を犯す行為となる。しかし、その考え方が自分の中に定着するまでには結構長い時間がかかった。そういうことはいけないことだというのが繰り返し報じられれば、セクハラ行為をしなくなる。しかし、なぜそれがいけないことなのかは深く考えない。世間が良くないと言っていることを避けた方が安全だと考えているだけであって、それを罪として意識できるためには、割と真剣になぜそれがいけないことかを考えて自分で言語化しないと心に定着することはない。
詰め込み教育、あるいは道徳教育、あるいは愛国心醸成は、刷り込みで行動を統制する。上手に刷り込めば、行動規範は制御できるのだが、なぜかを自分で突き詰めるまではその社会で安全に生きていくためのノウハウを学習していることに過ぎない。うまく生きていくことに執着してしまうと、自分の、隣人の、関係の薄い人の人権と向き合う力が弱くなる。ハラスメントに関して言えば、逮捕されなければOKという形になる。罪に問われるか否かに関わらずに人権侵害を行っている事実は変わらないのに、それを自分で評価することができない。
自分の言葉で、自分の頭で、私は今後人権を尊重しますと告白すれば良いと思う。告白すれば自分が言ったことに対する責任が発生する。中学生か高校生くらいの頃に人権尊重を自分ごとにした方が良いだろう。
憲法13条には以下のように書かれている。
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする
残念ながらこの条文では、範囲が国民に限定されているが、元をたどれば良い未来を作るために憲法を定めて、権利を守る約束をしたということだ。自分たちで守ることにした約束なのだから、誠意をもって守ろうと考えないとおかしい。違反すると罰せられるから守るのではなく、共通の規範として守ることにした約束だ。理想だから守りきれないこともあるし、設定した理想自身が完全なものではありえないから、約束も約束した後にわかってきたことも元に是正されるべきだ。
現実には、平等な人権を認めない人も存在する。人権の範囲も人それぞれで正解は存在しない。とは言え、まずは個人として尊重されていないと感じている人を最小化していくのが今の基本路線と考えるべきだろう。
ハラスメントは、優位な立場にある人が、そうでない人に対して理不尽な影響を及ぼすことでもある。影響を及ばされた人は非常に苦しい思いをしていたとしても、ハラスメントをした人は自分が人権侵害を犯していることに気づくことすらできないことが多い。気づくことができれば大抵の場合、その人からの被害は止まる。ハラスメントをした人が、怒られたから控えるという段階にいる限り形をかえて再発する。自分には特別な権限があるという慢心があると自分が人権侵害を行っていることを知覚することができない。もちろん、誰にでも起こり得ることで私にも起こり得る。ハラスメントを行っている人が気がつくことができない場合は、事実を明示して是正を迫るしか無いが、そもそも自分には影響力を行使する権利があると思いこんでいる人は事実に向かい合うことすらしない。
私は、今自分への人権侵害の是正を求めて、民事訴訟を争っているが、関係者の多くがそれが人権侵害であることに気がついて是正しなければいけないと思うようにならなければ、やがて形を変えて再発し続けるだろう。自分の人権を主張していくことは一人自分のためのことではない。ハラスメントとの戦いは、同時に社会を良くしていくための戦いでもある。だから、安易に戦いをやめてはいけないと思っている。社会を良くしていくということは、人権侵害の主体とも共に社会活動を続けていけるような社会を目指すことだとも思っている。
蛇足になるが、自民党の改憲草案では、人権に関する記述は人権は国が国民に与えるものという基調で書き直されている。条文の大半は似ていても、人権を基本において国はそれを守るために存在するという民>国の考え方を国>民の方向に再整理する罠に満ちている。これはハラスメントの構造と極めて似ている。極論すれば、独裁者が個人を支配するモデルになる。価値観を強制する社会を指向していることにほかならない。私には、そういう奴隷の自由を求める気持ちにはならない。
国に対してもそうだが、正会員から除外された状態のままとは言え、所属教会である日本基督教団砧教会に対しても独裁的な意思決定には全力で異を唱え続ける考えである。私にとっては、強烈なハラスメントで深い心の傷を受けた。今も、夜中に目が覚めてその理不尽さに眠れなくなることがしばしばある。まだ2020年6月7日に金井美彦氏による総会決議違反の疑義に対して事実を確認する教会総会は開催されていないし、客観性のある調査も報告も実施されてはいない。私は、書紀、役員会が事実の隠蔽を続けていると考えている。黙っているわけにはいかない。もちろん、私が勘違いしている可能性は否定しないが、訴訟で争っている過程でも私が主張している総会決議違反を裏付ける証拠を覆すような事実が出てきているとは考えていない。むしろ、より故意性が明らかになってきているように感じている。
ハラスメントは人権に対する罪だ。そして、国はハラスメントの主体となることもあり、国会や政府はハラスメントをしやすいような環境を作り上げてしまうリスクを負っている。セクハラ、パワハラといった言葉が量産され、面倒なことのように印象操作がされている感じがするが、人権の観点からもっと重く取り扱われなければいけないと思う。それが重罪を伴うものである必要はない。罰に頼らずに自覚的にハラスメントが起きないように社会を作り上げていくことが必要だ。ハラスメントをやってしまった人が人権侵害を自覚できたら、できるだけ良い形で赦していくのが住みやすい社会への近道だと思う。排除は結局新たな不幸の原因となる。