前職を2013年に去ってから、しばらく経って、谷根千のカウンターバーに通うようになった。サラリーマン、雇われ経営者(サラリーマン取締役)をやっていた頃は、社内外や関連団体に限らず仕事の関係の接点が多かった。それ以外は、親類か、かつての同級生などか、あるいは教会の接点に限られていた。しかし、一人になって自分の足で街を歩くようになって2年位だろうか、何か空虚なものが訪れたのだと思う。敷居は高かったが、カウンターバーに通うようになった。メインは3軒で、それぞれに客層が異なり、年齢層も話題も異なっていたが、どの店にも魅力を感じるようになった。いろいろな経歴の人がいて、かなり危険な匂いがする人もいれば、芸術家や学者もいた。
今考えると、無意識ながら私は人を見下してしまう失礼なところがあった。今もあるだろう。どこかで自分はエリートだと思いこんでいたのかも知れない。しかし、ある程度話をするようになると、それぞれ自分の人生を生きていて一生懸命工夫していて、かならずこれはスゴイと思うものを持っている。ご自分ではそれをスゴイと思っていないことも多いが、私には絶対マネができない凄さを感じることが何度もあった。
その中で感じた一つが、身近な人を大切にする凄さだ。まあ、危ない側面ではあるのだが、自分の弱っちい知り合いが暴力沙汰で苦境に立ったら、自分を捨てても絶対守ってやるという無茶苦茶なエネルギーだったりする。それで損をすることが多いのは間違いないのだが、本人はそれを後悔しつつも愛が溢れ出るのだ。
私は、安倍晋三氏にちょっと同じ匂いを感じる。失礼な感想であることは承知しているが、彼はいわゆるボンボンで知力が高いとは思えない。しかし、身近な人を虜にする魅力がある。私自身、ちょっと講演を聞いただけで高揚感があった。知人で間違いなく心から絶賛している人もいる。多分、この人は自分が苦しい時にきっと決して見捨てずに味方になってくれるだろうと思わせる力があるのだと思う。尽くしたくなるのだ。
しかし、改めて考えると、実際にやっていたことはとんでもないことが多い。どう考えても救世主ではない。
どれだけ人の関心を集めることができても、人は死ねば普通はそれで終わりだ。しかし、死後も多くの影響力を残す人もいる。時間の洗礼を受けることなく評価することはできないが、人となりではなく、そのやったことを冷静に評価できれば良いと思う。
人間的な魅力には人を、あるいは世を動かすほどの力があるが、人を盲信、人に隷従してはいけない。やっている事をよく見るのをサボってはいけないと思う。
愛情豊かな人は、かならず善行を積んでいる。それは本当に素晴らしいことで尊敬に値する。しかし、どれだけ善行を積んでいたとしてもダメなことはダメだ。ダメなことを無理やり通す者はその時点で扇動者に堕ちている。近くにいる人は、深みに堕ちていくのをとめなければいけない。独裁者は民が作るのだ。踏み外した道から元に戻れる内に事実を直視できるように支援できればそれに越したことはない。
マイクロ安倍はそこら中にいる。未来のためには、油断は禁物だ。