新生活105週目 - 金持ちとラザロ

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第26主日 (2022/9/25 ルカ16章19-31節)」。今日の箇所にも並行箇所はない。

福音朗読 ルカ16・19-31

 〔そのとき、イエスはファリサイ派の人々に言われた。〕19「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。20この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、21その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。22やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。23そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。24そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』25しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。26そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』27金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。28わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』29しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』30金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』31アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

この箇所を読んでラザロと自分を重ねて考える人はいないだろう。ルカ伝の説教臭さが感じられる箇所の一つだ。福音のヒント(2)で「ここにある死後の世界の具体的な描写は当時の人々の考えに基づいたものであり、イエスが死後の世界のありさまについて教えようとしていると考える必要はありません」とある。私もイエスが死後の世界のありさまをこのような形で語ったと考えるのには無理があると思う。イエスの復活を経て、死が終わりを意味するのではないというのはキリスト教とにとっては自明のこととなったが、その信仰に関わらず多くの人は死で終わりとは考えたくないと思っている。死後のことは心配事となり、死後の自分が幸せであることを願う。そして今生きている自分の行いが自分の死後の幸せを左右するのではないかと考えて善い人生を送ろうとする。しかし、生きている時の行いで死後の幸せが変わるかどうかはわからない。「死後、裁きにあう」かどうかもわからないし、死後はその幸せに変動がないのかどうかもわからない。どちらかと言えば、死後の世界を持ち出すのは宗教指導者が信者を従わせるための方便だと私は考えている。ただ、死んでも終わらないのであれば生きている間に積んだ富や徳、あるいは悪行が死とともに消えるとは考え難い。ただ、形ある宝を死後保有し続けることができるとも思えないし、生きている間の行為がどう影響を及ぼすかもわからない。良いことをやれば救われると思いたいが、保証は得られない。

この箇所は、福音のヒント(2)にあるように「今をどう生きるかを鋭く問いかけている」と取りたいと思う。

自分のことを金持ちだとは考えないが、自分の住処のそばにラザロがいたら、共に生きるのは難しい。不潔な人に近寄りたくはないし、怖いと思う気持ちを抑えることはできないと思う。でも、長年聖書に接しているとラザロが死後に自分より高く評価されていてもちっとも変だとは思わなくなっている。この世で、人から敬われる存在であることや富を持っているということは死後の成功を意味しないと考えている。もちろん、この世での成功を望む。いろいろ自分の目で見てみたいと思うから、金が無いと不自由だし、健康状態が良くなければその思いを実現できない。つまり、自分がラザロの状態になれば夢はかなわない。恐らくまず健康を求め、衣食住を求め、行動の自由を求めるだろう。逆に言えば、ラザロが健康になり、衣食住が満たされ、行動の自由が拡大する社会の構築を望むのが適切ということになる。

金持ちであっても、その人が一人でできることは少ない。多少の富を持っていたとしても、それを分け与えただけではそれで終わりだ。施しをしなくて良いという理由にはならないが、施しをしなければいけないとも言えないだろう。生きている間に良いものをもらっていたのなら、それを生かしてラザロが共に生きていける方向に貢献すべきだったのではないかと糾弾されてもぐうの音も出ない。死後の備えのためにやるということではなく、誰もが人権が守られて共に生きていける社会を目指している方が今幸せだと思うのだ。自分がお金を投じてラザロを救いたいと思うのもありだし、自分の手で手伝うことができればそれは素晴らしいことだと思う。でも、いやいや福祉を進めても幸せになれる気はしない。

困りごとは数限りなく落ちている。ラザロを目の前にして私は手を差し出すことはできないと思うが、その勇気が湧いてきたら幸せになれると思う。イエスの教えが頭をよぎる時、普段は出ない勇気が湧いてくることはある。愛する人が苦境にさらされていれば勇気は出やすいが、苦境にさらされている人が愛する人でなくても勇気が出ることはある。かしこく良い行動がとれればそれに越したことはない。そして、それは死後の世界に向けた備えではない。今の判断である。

イエスの言葉・教えを福音・Good news・善き知らせと言うが、その善き知らせで良い勇気が出て共に生きていける人が増えていくのなら、それは間違いなく善き知らせだと思う。福音を死後の救済と引き換えにする脅しにしてはいけない。隠された真実を求めるより、今生きている人がよりよく生きていける方法を探して自分にできることを探していくほうが現実的だし実りも大きいだろう。力を合わせなければできないこともあるが、大きな力には十分に注意しなければいけない。

教会員なら救われるとか、救われるために牧師の言うことを聞かせるとか、そんな言動は詐欺だ。できることはわずかでも、外を向いてラザロと共に生きていける道を探すものでありたいし、そういう教会で信仰生活を共に送りたいと思うのである。嘘を付く牧師や、それに忖度する役員、あるいは牧師を誘惑する役員は福音を損なう。間違いは正して、先に行けたら良いと願っている。間違っているのが私であれば、私は勇気を出してその間違いを正さなければいけない。

Wikipediaの金持ちとラザロからたどってwikimediaから引用させていただいたもの。私の感覚では、このルカ伝の記事は意図を持った改変が含まれていると思われてならない。事実がどうだったのかは分からないが、イエスがこの通りの発言をしたとは思えない。この絵画はその意図を可視化していて地獄絵のような効力を持つが、今の私はこういうイメージは持っていない。