Al JazeeraのRussia-Ukraine war in maps and charts: Live Trackerを眺めていたら、冒頭の画像に目が止まった。私はウクライナには行ったことはないが、短時間渡航を含め、ベラルーシ、ポーランド、スロバキア、ハンガリーには行ったことがある。エストニアにはしばしば行くが、エストニアにいるロシア人比率は25%、ロシア語を母語とする人は30%だ。ウクライナでは、ロシア人比率は17%、ロシア語を母語とする人は30%。
今回のウクライナ侵攻での避難民が一番多いのはポーランドで643万人だが、二番目はロシアで277万人だ。ロシア人でロシア語を母語する人の中には、戦火の中ロシアに逃れたいと思う人がいるのは不自然なことではない。日本にいると、日本語を話す日本人が大多数を占めるので国と民族を分けずに考えてしまうけれど、例えばネパールに行くと民族も宗教も多様で、戦争や災害が起きた場合の反応は国内でそう簡単に一致しないのは自然だと思う。
ウクライナでは、ロシア人はマイノリティだから差別感を感じる人もいるだろう。本気で独立をしてロシアとの友好関係を高めたいと考える人がいたとしても不思議ではない。一方、ウクライナを逃れたウクライナ人は、ポーランドでもハンガリーでもルーマニアでもマイノリティになる。マイノリティが生きていく時にはハンディキャップを負う。好きで移住する人は覚悟の上だが、追われて移住する人には厳しい現実だろう。
今後のことは、ウクライナに限らずどう変わっていくかは予断を許さない。
エストニアは、今は自由で苦労も多いけれど未来が開けているという空気感がある。だから、ロシア人が25%、ロシアよりの都市では多数を占めていて緊張感はありつつも協力はできている。しかし、駅の放送からロシア語が排除されたり、エストニア人の価値観が正統という空気が拡大してしまうと恐らく活力は低下するだろう。ナショナリズムには持続性はない。振り子が振れすぎれば破滅が待っている。
私がヨーロッパに感じる最大の魅力は移動の自由、就労の自由だ。特にアムステルダムには自由を感じる。民族多様性ではニューヨークやロンドンの方が多様だと思うけれど、アンゴロサクソンの重みが感じられるのに対して、ベネルクスは比較すれば指導層の多様性が高く自由な感じがする。住んだわけではないので誤解かも知れないが、いろいろな人が暮らしているのは事実だ。
正直に言って、今回の戦争でウクライナが負けるのは見たくないが、特にウクライナに済むロシア人やロシア語を母語とする人が差別されるような未来も見たくない。ほとんどの場合、差別する側にも悪気はない。なんとなく壁を感じるだけで、居心地が悪く感じて遠ざけているだけだ。しかし、遠ざけられた側の苦しみはマジョリティにはなかなか気がつくことはできない。繰り返し不利益を感じるとその恨みが澱のように積み重なっていく。これまで人類が繰り返してきた過ちで、ホロコーストで解決できると考えたりする段階に堕ちてしまうこともある。
まずは、戦争を止め、被害者を増やさないように動かねばならないが、私は移動の自由、就労の自由が国籍によらない基本的人権として確立されないといけないと思っている。決して簡単なことではなく、排他的な人の抵抗がなくなることはない。
教育プログラムを見直していかないといけないだろう。
残念ながら、日本は差別大国である。それを恥ずかしいと思う人を増やしていく必要がある。