新生活107週目 - 重い皮膚病を患っている十人の人をいやす

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第28主日 (2022/10/9 ルカ17章11-19節)」。今日の箇所にも並行箇所はない。重い皮膚病という訳が用いられているが、昔はらい病と書かれていた。英語の聖書では今もleprosy(ハンセン病)という言葉が使われている。wikipediaの記述を読むと、「国立療養所長島愛生園長島曙教会牧師大嶋得雄らは、この「重い皮膚病」を不適訳で、真実・愛・真心のある訳でないものであって聖書が差別 偏見を与えるものとなり、社会に悪影響を及ぼすとして不買を求めている。」と書いてあった。現代では治療法が確立されており、あえて病名を隠すのは不適切とする考え方に私は共感する。重症になると目に見える病変が起こることがあるため差別の対象になったのは想像に難くない。しかし、感染力は低く、感染してしまった人は運が悪かっただけに過ぎず、何か悪い行いをしたから病を得たわけではない。自然治癒もある。

今も人類と感染症との戦いは続いているが、病を得た人は罪人ではない。科学的知見が蓄積されていてリスクは評価できるようになっているのだから、危険な行為は控えるに越したことはないし、感染爆発は社会的な影響も大きいから一定の規制は必要だろう。聖書にある律法ではこの病に関する社会復帰の基準も規定されている。感染を抑制するための施策と同時に社会復帰を促進する施策も必要だ。

福音朗読 ルカ17・11-19

 11イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。12ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、13声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。14イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。15その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。16そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。17そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。18この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」19それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

らい病の治癒奇跡はマタイ伝8章にもあり、何らかの事実や伝承はあっただろう。「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」は社会復帰規定に対応したプロセスで、公式に治癒が認定されたということだ。瞬間的に治癒するとは考えにくいし、祭司が認定するまでの時間は短くないので、旅行の途中に治癒から社会復帰までの時間的な余裕があるとはとても思えない。

「遠くの方に立ち止まったまま」は感染者が自制していることを示すとともに、病気そのものだけでなく社会参加できない悲哀を感じさせる。社会復帰がかなったら、イエスの伝道活動に参加したいと考えて後から何とか追いかけて追いついた可能性はあるかも知れない。10人回復したのなら、その中から1人が積極的に参加したとしても高確率だと思う。果たして、イエスは本当に「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」と発言しただろうか。私には違和感がある。ただ、救いは身内だけにもたらされるわけではないし、そこに国籍は関係ないという教えはあったのだと考えている。実際にどのような事実があったかは分からないが、ルカ伝執筆陣の意図が込められると感じさせる箇所ではある。

福音のヒント(5)で「あなたの信仰があなたを救った」という言葉に言及がある。「神があなたを救ってくださった」も自然な感じがするが、とり方によっては、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と声を上げた時に、既に彼らは救われていたとも言える。きっと自分は見捨てられることはないと信じることで、一歩を踏み出す勇気がでる。その勇気が出ることで新たな挑戦が始まる。簡単には成功しないけれど、信仰があるとあきらめないですむ。あきらめずに道を追い求めればやがて道は開けるかも知れないし、道を熱心に追い求めている時は苦しくてもその人は救われていると言える。「あなたを救った」は恐らく治癒を指しているのではない。心の状態を指しているのだと思う。

自分の力ではどうにもならないことはいくらでもある。しかし、諦める必要はない。必ず神から憐れんでもらえると信ずれば、何度でも立ち上がる勇気を得ることができる。私は、信仰告白の原点に戻る時、決して神から見捨てられることはないと思い直す。同時に、本当に自分は求めるべきことを求めているかを見つめ直すことが求められていると感じる。

※画像は、wikimediaから引用したTissotのこの箇所の絵画。

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