信仰と説教のこと

説教って何だろうかと思う。

真理の追求には信仰は必要だとは思わないが、祈りの時に真理を示し給えと願うことがある。努力放棄をしているわけではないが、努力とは無関係に気づきが降ってくる体験をした人は少なくないだろう。祈る瞬間は謙虚になって良いことを願う。自己中心的な願望から自由になることはできないが、聞き届けられても良いはずと思うことを祈る。

パウロの回心は劇的だが、突然人は変わることがあるのだ。彼の場合は、望んで変わったわけではなく聖書の記事が事実であれば彼は復活のイエスに出会って回心した。そして、イエスは本物だからその教えを広く伝えなければいけないという使命感を持って活動し一定の成果を得た。彼が関わった教会が現代まで生き残っているわけでもないし、彼の書簡には様々な教えが含まれているが、それは彼から見えるイエスの教えでしか無い。コリント前書3:6にあるように「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」と書いていて、自分を特別な存在とは位置づけていない。これが、説教者の原点だと私は思う。

説教者が溺れると被害者が出る。被害者は私だけではない。金井美彦氏も自ら己の被害者かも知れないと思う。事実に向かい合ってもらいたいと祈る。証拠が出揃っていても事実に向かい合うことができないのは、何かの呪縛に囚われているのだろうか。