新生活113週目 - 「十字架につけられる」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「王であるキリスト (2022/11/20 ルカ23章35-43節)  」。全ての福音書に平行箇所がある。十字架にかけられた後のシーンである。

福音朗読 ルカ23・35-43

 35〔そのとき、議員たちはイエスを〕あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、37言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
 39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

福音のヒントにある教会暦の「王であるキリストの祭日は年間最後の主日にあたります」を読むのは3回目となった。C年(ルカ伝)の終わりということになる。復活のシーンは出てこない。翌週から年が変わり待降節となる。

福音のヒント(1)にあるようにルカ伝以外では、一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしったと書かれていて、「もう一人の方がたしなめた」という記載はない。しかし、私にはこのルカ伝のシーンの方が強烈な印象があって、他の共観福音書でも同様の記載があると思いこんでいた。今回、改めて比較して読んでみるとたしかに違う。実際はどうだったのだろうか。私達は、キリスト後の世界を生きているので、キリストの十字架刑と復活の伝承を知っている。だから、キリストは神の子であったという解釈があることに信じるか否かは別にして違和感はない。だから、このたしなめた人の行動にはなんとなく共感してしまう。しかし、この時点では復活は起きていないわけで、常識的に考えれば、やはりイエスは本物ではなかったから死刑になったのだと思うのが当然と言える。こんな発言をする死刑囚がいたらすごく変だ。多分、ルカ伝のこの部分は事実には反するだろう。でも、可能性は低いが、ひょっとしたらこういう人もいたかも知れない。自分が絶体絶命の窮地にある時にも冷静に周りを見えるような人はいる。

死産や、あっという間に亡くなったケースを除けば、罪を犯さない人は存在しないし、生まれて一度も嘘をついたことのない人もいないだろう。つまり、量り方次第では誰もが死罪は当然と言える。単に自分は計量すれば、善人の上位10%に入るとか、下を見ればもっと悪いやつもいるから、自分は死罪にあたらないと考えるのが自然だ。十字架にかけられた残りの2人も逃げられないとは思っても、自分に与えられた罰の重さが妥当だと思えないのではないかと思う。この世にはGood guyとBad guyしかいない、Good guy with gunが世界を平和にするのだといった言説は極めて差別的なのだが、自分の良いところを見れば、全ての人はGood guyとなる(もうその時点で女性を人間扱いしていないとも言える)。イエスはGood guyだったかといえば、そうではない。安息日規定に違反したことは数知れないし、Bad guyであっても差別しない。むしろ、自分は白い、救われて当然と考えている人にそれは違うよと言う。空気も読まない。言葉遊びはするが、駆け引きはしない。それはすごいことで、この囚人はそういうイエスを見ることができたのかも知れない。ただそれに対して「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とイエスが言ったかどうかは分からない。イエスが「今、あなたと私は同じ楽園にいる」と言ったのなら納得がいく。耐え難く苦しい状況にあっても真理を生きるならそれは楽園にいることにほかならないという考えはイエスの教えに合致する気がする。

福音のヒント(4)にある「苦しみのどん底の中で、イエスが共にいてくださることに気づいたとき、そこにもう「バシレイア」が実現している、そこが「パラダイス」になる」は、言い換えるとイエスは必ず私のことを気にかけて愛していることを信じられていれば、その人はパラダイスにいるということになるのだろう。本当に苦しいときに、私はそれでもイエスが私を気にかけていて愛してくれていると思えるかどうかはその瞬間にならなければ分からないが、そうでありたいと思うのである。

※画像はThe Solemnity of Our Lord Jesus Christ, King of the Universe HomilyというタイトルのOblate School of Theologyのページから引用させていただいた。言葉から、勝利者を想像させるのだが、私はいつか来る存在として恐れを抱かせるような情報発信は今ひとつ気に入らない。そういう発信をしないと伝わらないというのは現実だと思うけれど、その入口をくぐったら、もっとリアルに考えたほうが良い。結局は、自分たちでどういう社会を築こうとするのかが問題となる。