新生活115週目 - 「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「待降節第2主日 (2022/12/4 マタイ3章1-12節)」。A年のマタイによる福音書の初回。各共観福音書に並行箇所がある。マルコ伝では1章1節。ルカ伝は少し長い。

福音朗読 マタイ3・1-12

 1そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、2「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。3これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
 4ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。5そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、6罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
 7ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。8悔い改めにふさわしい実を結べ。9『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。10斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。11わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。12そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

洗礼者ヨハネは聖書では前座役だが、ストイックな感じがして好感が持てる。多分、品行方正さでははるかに人間イエスを凌駕する存在だったのではないかと思う。福音のヒント(1)で「彼の活動は伝統的な預言者のスタイルを意図的に再現したものでした」とある。当時の宗教指導者から見ても、うるさいとは思っても一定の評価は受けていたと想像する。荒れ野で活動していたので、中枢を脅かす存在ではなかっただろう。噂を聞きつけてヨハネ教団に寄ってくる人が多くても非日常のイベントであり、自ら歩き回り教えを伝えるイエスのような社会的なインパクトは無かったと思う。日本的に言えば、雉も鳴かずば撃たれまいといった感じなのだが、ヨハネは断首されて最期を迎える。権力者にやられたわけだが、イエスの場合は民衆が十字架に掛けろと死に追いやった。イエスはこのヨハネの洗礼を受けて活動を始める。

「差し迫った神の怒り」は常識的に考えればイスラエルの危機、イスラエル民族の危機を示すだろう。他国の侵略や疾病や災害などによって、既に失われている独立がさらにひどい状態になるという警告に取れる。修験僧のような預言者が声を発すれば、呼応する人が出ることがあってもおかしくない。この時回心という言葉はふさわしい。原点回帰。

「悔い改め」は概念としては簡単だが、実行は難しい。誰でも、間違いは犯す。犯さない人はいないだろうから、これはまずかったと思うことがあればそれを悔い、反省して同じ様な過ちを犯さないように改めるというだけのことだ。犯した過ちによって傷ついた人がいれば回復に尽くさなければいけないが、起きてしまったことはなくなることはない。悔い改めたからといって過去がなくなるわけではない。傷つけてしまった人との関係を含めて未来は変えられる。それでも自分が悔い改めたからといってバラ色の未来が来るわけではない。ただ、多数の人が悔い改めて回心すれば社会が変わる可能性が高まる。

社会が変わる可能性があるということを理解することは難しくない。もちろん、関心のない人もいれば、既得権益者は社会が変わることに恐れをいだく。預言者が迫害されるのも、イエスが追い詰められるのも、極論すれば変化を恐れる心の影響と考えても良い。

注意しなければいけないのは「俺について来い」という扇動だ。悔い改めは個人的な事象で、自分が自分の努力で変わらなければいけない。扇動は自分はそのままでも誰かが世界を変えてくれてそこに繋がっていれば自分もうまい汁が吸えると考える甘えを助長する。動きもしないで変わったら何かおかしいと感じなければいけない。

この箇所通りの発言があったとするとヨハネのメシア観は「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」存在ということになるが、イエスはそういう存在ではなかった。それどころか、裁かない人だった。その後のキリスト教会も「かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん(プロテスタント版使徒信条)」と考えている。強い神だ。私も使徒信条を何度も唱えているし、やがてイエスが来て救われる人と救われない人を決め、世を正すのだという教会の理解を追認している。もちろんその通りかも知れないのだが、違うような気もしている。世を正すあるいはこの世が終わって新しい何かが始まる、あるいは存在するあの世に移るという話なのかも知れないが、人類全部が影響を受けたとしても宇宙規模で見ればどうしようもないほど小さな事件だ。

裁きがあるなら、救われる側に評価されたいけれど、どう逆立ちしてもクリアできる理由が見つからない。それでも、悔い改めて良いことをしたいと思う。どういう結果になるにせよ、変化を恐れて変われないよりは、もがこうが、足掻こうが、すすめる限り前を向いて進みたい。

なぜそう思うかといえば、イエスの影響でエネルギーが湧いてくるからだ。

イエスは正義を無視しないが、愛を上に置く。正義は必要だが正義だけでは人は救えない。ヨハネは正義に人で、神の裁きという驚異が前に出た。イエスは罪があっても「私もあなたを罰しない」と言う。悔い改めは求めるが、罰しない。罰せられると思えば愛は冷める。不義をごまかしても愛を冷ます。自分が正しいと思っても、お互い様であっても、悪意の有無にも関わらず、愛を冷ます行動は悔い改めなければならない。しかし、現実には無理ゲーとなることもある。

しかし本当に重要なところではイエスが動いてくれるだろう。イエスを待つというアドベントは単に誕生日を祝う準備ではない。この世の、自分の問題として、イエスを待つ。待つだけではなく、自分が悔い改めて変わらなければいけない。それが難しいことであっても、出口があることを信じて待つ思いを確認する時期でもあるのだと思う。

※画像は、Wikimediaから引用させていただいたSt John the Baptist in the Desert(砂漠の洗礼者ヨハネ)。正しさと厳しさが溢れてくるような絵なのだが、あまり美しいとは感じない。軍服を着せると立派に見えても正義は恐ろしいものだ。そういう力は必要となることがあるが、愛を忘れれば自由も失われてしまうと感じさせる。絵を見ていて、イエスがヨハネの弟子だった時、こういうヨハネを見たイエスはどう考えていたのだろうかと考えた。