新生活118週目 - 「イエスの誕生」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「主の降誕・夜半のミサ(2022/12/25 ルカ2章1-14節)」。先週のマタイ伝に引き続き今週はルカ伝のイエスの誕生。

福音朗読 ルカ2・1-14

1そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。3人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。4ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
 8その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」13すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
 14「いと高きところには栄光、神にあれ、
 地には平和、御心に適う人にあれ。」

他の歴史資料に照らすと、この住民登録は史実ではないのではないかと思われる。多くの人がこの住民登録はどの人口調査かを分析している。一例としてクレニオの人口調査とキリストの生誕についての省察がある。常識的に考えれば、このルカ伝の記述のほうが作り話と考えたほうが納得感がある。イエスがベツレヘムで生まれたというのも本当に史実なのか怪しい。ベツレヘムはナザレからは約150kmと遠い。ベツレヘムとエルサレムは8km強。なぜ、身重のマリアを連れてわざわざベツレヘムで住民登録したのだろうか。住民登録をすれば、そこで課税されるだろう。徴税コストを考えると住民登録のある遠方の非居住者からは取りにくかっただろうから、それを意識して遠い街で登録したのかも知れない。住民登録がなければ得られない公共サービスもあったかも知れないので、住民登録へのインセンティブはあっただろう。ただ、住民登録に適しない定住しない集団(遊牧民)も存在した。8節に出てくる羊飼いたちは住民登録をどうしていたのだろうか。どうやって住民登録の有無を証明したのかも気になる。パウロはローマの市民権を有していたとされるが、証明する手段はわからない。現代日本の住民票のようなものがあったようには思えない。イエスの住民登録はあったのだろうか。

ついイエスの誕生は西暦0年と考えるが、ヘロデ大王が生きていた時期に生まれたとすれば、紀元前4年より前に生まれていなければいけない。諸説あるが天文学的な推定では西暦30年4月7日にイエスが処刑された説がある。イエスの誕生からは30年以上が経過していたのは確実で、どうやって当時の羊飼いから事情を聞いたのかと考えると天使の言葉を覚えていると考えるほうがおかしい。もし、実際に天の大群を見たなら忘れられない体験となるかも知れないが、30年以上前の経験をさやかに思い出せるとは思わない。

恐らく既に失われているとは思うが、将来、住民登録のデータが見つかるかも知れない。可能なら事実を知りたい。当時のエルサレムの人口は1万人程度と推定されているが、どのように管理していたのだろうか。

ルカ伝が書かれ、聖典化される過程で一定の検証は行われたはずで、当時だって事実検証がなされなかったとは思わない。複数の伝承があって、矛盾があっても一致を優先してよしとしたと考えるのが適当だろう。ただ、イエスが生まれたのがいつで、イエスが生まれた場所がどこで、その時誰がその場にいたのかには本当の事があるはずだ。ルカ伝を受け入れるということは、それほど確からしくはないが、こういう事実があったことを信じることにしようという決断となる。

いろいろ怪しいが、とりあえずこの箇所が事実通りと考えるとすると、インパクトが大きいのは8節以降の羊飼いと天使の話だろう。福音のヒント(3)にあるように、羊飼いは定住者ではなく当時のローマ市民を頂点あるいは中心とする都市生活者基準の階層からすると、もっとも低い集団またはもっとも遠い集団にメッセージがもたらされたというのは大きい。現実社会でも辺境から突然頭角を表す人はいて、世襲のエリートを凌駕することは珍しいことではない。「あなたがたのために救い主がお生まれになった」というメッセージはどう響いただろうか。遊牧民の不利を解消してくれると受け取っただろうか。天候の影響を受けにくい堅牢な建物に清潔で柔らかい寝具があるような暮らしが得られるようになると願っただろうか。あるいは、自由はそのままに徴税や徴兵のない未来を願っただろうか。恐らく、一人ひとり希望は異なるだろう。救い主という言葉に投影するイメージは人それぞれだろう。

都市生活者でも、権力者であっても、悩みのない人はいない。しかし、序列に生きている人は順位が高まることを願うだろう。それを人生の成功の尺度にしてしまう。頂点に近い人から見れば、救い主は脅威だ。秩序が壊れれば、自分の権益は失われてしまう。権力者から見れば、序列の固定化が都合が良い。牧師だって簡単にその罠に落ちる。住民登録は支配・被支配の関係を明確化するもので、基本的に「救い主」の存在を許さない。「救い主」は頂点に立つものの道具でなくては都合が悪いのだ。

集団を形成して集団感の序列を決めたくなる思いから自由になることはほぼできない。自国のスポーツ選手が勝てば嬉しいし、競争相手と思う国の選手に負けると自国のスポーツ選手を責めることさえある。目下だと思うグループが力をつけてくると悔しがる思いから自由になることは困難だ。序列をつければ序列間闘争は避けられない。

自分あるいは自分たちの道具になるような「救い主」を求めてしまうのは人間としてはとても普通なことなのである。

しかし、利権をもたらすような「救い主」は平和をもたらすことはない。様々な奇跡を起こすイエスにユダヤの王を期待した民衆は少なくなかっただろうが、ユダヤ人の王はローマによってやがて死刑に処されることになった。イエスはピラトにとっても当時の群衆にとっても自分たちに都合の良い存在ではなかったので「救い主」と考えられることもなく殺しても影響のない存在だった。まさか、死後に影響を与え続けるような存在とは思っていなかったのだろう。

「地には平和、御心に適う人にあれ。」は意味深長である。ルカ伝の著者、編集者はキリスト教会のための救い主として書こうとしたのだろうか。それとも自分に都合の良い「救い主」を求めるものではなくイエスを通して垣間見える「御心」に適う人となれという奨励として書いたのだろうか。執筆時には、既にイエスは昇天し自然法則に従うこと無く、パウロ等に影響を与えるような存在になっている。今の状態と変わらない。

イエスは御心に適う人になるために何の条件もいらないと説いていたと理解している。罪を犯しているとだめだとも言っていない。むしろ、自分が特別で誰かより有利なポジションにいると思うのはやめなさいと言っていて、本質的には序列などないのだと説いていると思う。現実社会では、力に頼らなければうまくいかないことはたくさんある。戦争を止めることとか、地球温暖化を止めることとか、個々の良心に頼るだけではどうにもならないことばかりだ。

幼子イエスは何の力も持たないが、彼が来たことによって「誰も取り残すことのない社会を目指そう」が道は果てしなく見えても達成可能だという福音が届くようになったと理解している。愛でたいことだ。

※画像はWikipediaのFile:Geertgen tot Sint Jans, The Nativity at Night, c 1490.jpgから引用させていただいた。生誕画に天使はつきものだが、私はそんな現象は何もなかったのではないかと思っている。ただ、聖霊は働く。