新生活130週目 - 「生まれつきの盲人をいやす」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「四旬節第4主日 (2023/3/19 ヨハネ9章1-41節)」。今週も並行箇所はない。福音のヒントによれば、洗礼志願者のための伝統的な朗読箇所の一つということらしい。洗礼を考え始めたころはヨハネ伝には心惹かれるものがあった。イエスのスーパースター感(全能感)が強く出ているので、心を燃やしやすい。逆に福音書の読み始めはマタイ伝は読みやすい。ルカ伝は使徒行伝とのつながりで再整理、マルコ伝は史実に近いのではないかと感じさせられる。マタイ伝とヨハネ伝以外は中級編という感じがある。

福音朗読 ヨハネ9・1-41

 1〔そのとき、〕イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。6イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」3イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。4わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。5わたしは、世にいる間、世の光である。」6こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。7そして、「シロアム——『遣わされた者』という意味——の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。8近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。9「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。10そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、11彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」 
12人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。 
 13人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。14イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。15そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」16ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。17そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。18それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、19尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」20両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。21しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」22両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。23両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。24さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」25彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」26すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」27彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」28そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。29我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」30彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。31神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。32生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。33あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」34彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。 
 35イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。36彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」37イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」38彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、39イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」40イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。41イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

洗礼志願者という言葉は、自分の受洗経験を思い起こさせる。私が通っていた砧教会の教会学校には3人の同級生がいた(厳密にはもうひとりを加えるべきだろうが、ほぼ毎週参加していたのは3人だった)。すべて男性だった。私以外の3人は父母揃って砧教会の創立時からのメンバーでクリスチャンファミリーの模範のように感じていた。高校を出る頃に一人の友が虫垂炎で急逝し、一人の友はいち早く信仰告白をした。私は19歳で洗礼を受け、もうひとりの友は洗礼後教会学校に通っていた人と結婚して、早い時期に交通事故で亡くなった。残った一人の友は、今は別の教会で信仰生活を継続している。残った私は現住陪餐会員に復帰できていないので、4人全てが砧教会に属していない状態にある。私は、子供の頃から社会性が低く友達とうまくやることは難しかったが、彼らは寛容だった。高校時代ともなると、意見の違いも結構見えてくるし、何でもうまくいくことはない。それでも、私にとっては大事な友だった。

生まれつきの盲人をいやすという話で、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」というメッセージは強烈だ。因果律は確率的とは言え、未来方向には影響を及ぼす。よくない行いをしていればやがてよくない報いが来ると考えるのは自然なことで、良い結果を期待して良いと思うことをする。本当にやるべきだった良いことができなかったから結果も得られなかったと思うことは多い。私は、人とうまくやれるのは良いことだと思っているが、やれなくて苦労することは多い。多くの人が、こうやればもっとうまくいくと助言してくれて、できるだけ従うようにはしているが、自分にとってより優先順位が高いと思うことがあれば、人の言うことはきけない。

盲人は視覚的に世界を把握する能力がない人のことを指す。耳が聞こえない人、手や足が思うように動かせない人は外から見て、その能力が無いことが見えやすく、蔑みや哀れみの対象となる。力に頼るものなら自分の下に位置づけるし、倫理的であろうとする人は哀れみの気持ちで接するかも知れないが、実はそれも相手を自分の下に位置づけていることにほかならない。その上から目線は本物の愛ではない。

実際は「欠け」は目に見える能力の欠損にとどまらない。外からは容易には見えないが、苦痛にさらされている人もいれば、多くの人が簡単にできることができない人もいる。理由のわからない不妊もあれば、自分で制御不能な性自認の問題もある。ごく最近になって、DE&Iが徐々に理解されるようになってきた。多様性の許容に公平の再考が追加されるようになった。引用した記事では「公平性とは、その不平等なスタート地点を認識し、不均衡を是正し、対処することを約束することから始まる一連のプロセスです」と書かれている。今日の聖書箇所にあてると「生まれつき目の見えない人」がおかれている不平等な状態を認識して不均衡を是正することを約束することが公平の始まりということだ。本人が罪を犯した結果不利な状況になっているか、両親の罪の結果かというような原因は関係ない。そんなことは関係なくその状況を改善するのが本質的だと言っていると読むことができる。それが奇跡物語になることで、イエスすげーという話になるのだが、今一度踏みとどまって読めば、公平性への言及と考えて良い。逆に言えば、DE&Iは西洋社会的にイエスの愛を文書化した概念となる。私は好ましいと思うが、現実には王権神授説的な人間に上下関係があって当然という考え方のほうが今は大勢を占めていると思う。偉い人の言うことには従うのが当然、同時に偉い人は憐れみ深くなければいけないという社会観は不自然ではない。自然と、不利があると下に位置づけられる者には、位置づけられるに至った原因があるという考え方が出てくる。因果律の帰納的適用で、誰かが悪かったから今の現実があると考えてしまう。イエスはそういう視点に留まっていない。

私たちには、イエスのように奇跡を起こすことはできないが、時間をかけてDE&Iを実現することはできる。イエスすげーで止まっているのではなく、自分にできることをすることが求められている。

一人ひとり、不利があろうとなかろうと互いに助け合って生きられる社会を作り上げていくのが良い。何かをできる人が偉いわけではない。できないことがあっても、一見ゴールから遠ざかるようなことをやっているのではないかと不安になっても良いと思うことはやれば良いのだ。そして、自分と違う世界が見えている人がいるのは当たり前のことと考えて歩んでいくしかないだろう。

2019年度砧教会標語金井原案
1. 一日一日を復活の新たな命として生きる
2. 世のすべてとつながりあっていることを覚え、各人にふさわしい責任を担う 
3.「弱さ」や「欠け」を認め、互いに助け合い、力強く生きる
4. 聖書を学び、キリスト教の基を確かめつつ、歩む

2019年度の砧教会の標語を議論する時に3番の「欠け」という言葉が刺激的という議論が役員会であったのを思い出す。結果として、上程された標語は「互いに「弱さ」を認め、助け合い、力強く生きる」と変更された。私は、当初の金井原案の方が好きだった。欠けの無い人など存在しない。障碍者や高齢者は弱者というイメージが付きまとうが、そこに立っていてはいけない。弱さは他人事で、助け合いはどうしても強者の仕事になってしまう。一方で、「欠け」を認めるというのは自分事だ。人の「欠け」を言い募るのはあってはならないことだが、自分の「欠け」の存在を許容できなければ真の愛情関係は成立し得ない。「欠け」は誰にでもある。外からの見え方は違ってもすべての人に「欠け」があるいとう現実を直視して、各人にふさわしい責任を担って公平な社会を構築するべく歩むというのが望ましいと思っている。

自分の「欠け」を認められなくなって共に歩もうとするものを排除すれば「今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」という言葉に直面することになる。事実を無かったことにしても事実は無くならない。そして、罪が残る。

※画像はWikimediaから引用したエル・グレコのChrist Healing the Blind