新生活134週目 - 「イエス、弟子たちに現れる〜イエスとトマス〜本書の目的」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「復活節第2主日 (2023/4/16 ヨハネ20章19-31節)」。福音のヒントの冒頭に「復活節第2主日の福音は毎年同じ箇所で、「週の初めの日の夕方」と「八日の後」にイエスが弟子たちに姿を現したヨハネ福音書20章の箇所です(なお、この「福音のヒント」も毎年ほとんど同じです)。」とある。一昨年昨年も私はトマスの話に注目していた。

福音朗読 ヨハネ20・19-31

 19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 
 24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 
 30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

昨年は22節について以下のように触れていた。

22節の「聖霊を受けなさい。」という記述が気になる。ペンテコステの話は強烈なのだが、この箇所では聖霊が弟子たちに宿ったというようには見えない。まだほぼ100%昇天前のイエスに留まっているように見える。ただ「聖霊を受けなさい。」という言葉は弟子たちの心に残ったのだろう。ペンテコステの体験の時に覚醒、自覚したのではないだろうか。

今年見直すと22、23節は、教会の権威付けをしているようにも読める。イエス自身は、だれかの罪を許さなかったことはないのではないかと思う。22節の並行箇所は見当たらない。罪が赦されないまま残るということはどういうことだろうか。福音のヒント(3)では「だからゆるしなさい」という意味だとしている。常識的に考えると罪が赦されないなら、罰が伴うと考えるのが適当だろう。マタイ伝25章31節からの箇所には最後の審判の話がある。その箇所の最後には「この者どもは永遠の罰を受け」とあるのでかなり剣呑な感じがある。ただし、この最後の審判の話は他の福音書に並行箇所はない。イエスが磔になってから一世代程度の間は、遠くない将来にこの世の終りが来るという考えが広がったかも知れないが、100年も経過すれば、この世の終りが来るという脅迫は子供だましのような位置づけになっていったはずだ。同世代のパウロは近々この世の終りが来ると考えていたように読める。この世の終わりが来れば、そのタイミングで最後の審判があると考えるのは自然だ。イエスがそういったと聖書に書いてあれば、弟子たちを軽んじるとやばいと感じさせる力はあっただろう。

考えるとこの話はかなり危険だ。愛の関係ではなく隷従の関係を生むリスクをもっている。聖職者による性犯罪やハラスメントが無くならない現実を見ると、赦す権限あるいは権威を人に与えるのが適切とは思えない。一方権威のない組織は維持が難しい。初期の教会では、直弟子は特別にイエスによって派遣されているものという権威付けは便利だっただろう。しかし、パウロはイエスの直弟子ではなく、復活のイエスに会って転向した弟子で、彼の存在がキリスト教を強くした。直弟子の系譜にあるかどうかは意味はなく、時として教会を介さずに復活のイエスは直接動くことが証明された。プロテスタントは、腐敗した教会組織に従うのではなく、直接神の声を聞けと考えるようになった。これはこれで危険な話だ。自分自身を含め復活のイエスの導きでこの道に入ったと思う人は自分が正しいと嘘偽りなく主張できるから、意見の食い違いの正邪を判断する方法を失ってしまう。正しいことが何かを判定できない。最後は法王に決めてもらえば良いというわけにもいかない。

弟子の権威あるはその継承の問題は、現代までずっと尾を引いている。近々に夜の終りが来るという前提で社会を運営することもできない。初期の教会のような現実経済を無視したような行動には持続性がない。

弟子に限らず、イエスとの遭遇経験の強さに限らず、復活のイエスに出会った人には愛が宿り、そこに起点を置いて生きるようになる。個々人に差はあるから行動は一様にはならないし、その愛のわざの実の結び方も異なる。権威者、権力者の罪を安易に許せば、犠牲者が増えるから、何でも許せばよいということにはならない。悪い結果を導きそうなことがあれば声を上げることは必要だ。ただ、そこで愛が働いていなければ復活のイエスを信じて約束したことを裏切ることになる。現実にはいろいろなことが並行して起きるから完全な人生など望み得ない。

私は、復活のイエス、あるいは昇天前のイエスが22、23節の言葉を発したとは思わない。編集者の加筆または解釈表明だろう。ただ、そういう記事が残っても良いかとも思う。現代なら、様々な意見をインターネット検索することは容易だ。間違いもあるし、悪意に満ちた記事もあるが、事実に近づく手段は増えていると思う。罰せられるかどうかは別にして、嘘はバレやすくなった。それでも、事実に当たるのではなく人についていくという扇動者への隷従を自ら選ぶ人はいなくならない。

しかし、鍵をかけた場所にいても、復活のイエスは来るときには来る。本当に必要な時にはイエスは自ら働くと信じて自分のやるべきことをやれば良いのだ。自分が道を間違えないようしようと思えば、事実をよく見ることだろうと思う。甘言に溺れないようにするのは容易なことではないが、真理こそが人を自由にする。

使徒信条には「かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん」とある。イエスが裁くというイメージは私にはない。審きがあったとしても、イエスは例外なく救うだろうと思う。同時に、だれも審きに耐えられる人はいないだろう。実際にはDo your best以外の選択はない。

弟子たちが全員信仰を全うできたかどうかはわからないが、ベストを尽くした人たちのかいはあった。誰ひとり取り残すことなく改善し続ける社会は少なくとも標語としては良いものとして受け入れられるようになっている。道を真っ直ぐにするためにやれることをやろう。

※画像は、英語版ウィキペディアのJohn 20:19から引用させていただいたもの。イリノイ大学所蔵の書籍をGoogleがスキャンしたものらしい。