新生活137週目 - 「イエスは父に至る道」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「復活節第5主日 (2023/5/7 ヨハネ14章1-12節) 」。並行箇所はない。告別説教と言われる長い箇所の冒頭である。福音のヒントでは13章から17章だが、短めに取ると14章から16章で、力強いメッセージに満ちている。

福音朗読 ヨハネ14・1-12

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」

 最後の晩餐の記事は、マタイ伝でもマルコ伝でも4節の短さで、おそらく史実としてはこの説教はなかったのではないかと思う。これだけのメッセージが込められた話があれば、記録に残らないほうがおかしい。また、他の福音書ではゲッセマネの祈りの箇所があり、相当追い詰められていた印象のある記事となっている。人間イエスが苦しみの最中にあったとしたら、このような話はできただろうか。

一方で、他の福音書ではガリラヤにいた時とエルサレムへの旅の途中で復活の預言が記録されているので、その預言が内包する意味を事後に再整理して解釈を与えたら、この告別説教にまとめたとしても違和感はない。それでも、記述の基本は史実に忠実であって欲しいと思う。

私が気になったのは「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」という部分で、復活のイエスに出会っていなければ、あるいは聖霊の動きがなければ分かるわけがなく、シーンとして無理があると思う。もう一点気になるのは「わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」という部分だ。それは何を意味するのだろうか。虐げられているものが自由を得られるようになることだと私は解釈している。

例えば、日本の心身障害者医療費助成制度(東京都の場合)のように、生きていくことが容易になる制度の構築は「わたしが行う業」の一部を社会的に実現したことだろう。立法府や行政府が機能すればイエスのようなスーパースターがいなくても救える命は増えるし、逆に言えば一人のスーパースターがどれだけ優れていても影響を及ぼせる範囲は限られている。イエスが律法学者に厳しいのは、力がある人が自分の責任を果たさなければ自由は拡大しないという風に解釈することができる。より弱いものから奪うのではなく、誰もが取り残されることのない社会を作る方向に動けというのがイエスの教えだろう。権力を自分の保身のために使うのではなく、その能力に応分な範囲で自由を拡大する方向に使うという気持ちが入るということだろう。それが「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」ということにほかならない。病気を治すとか、不思議な力が与えられるということもあったらしいが、自分ができることは自分でやって自立する、周囲で苦しんでいる人を支えて生きていく、科学や制度でインフラを高めていくというのは現実的な姿だろう。まず身近な人から助けるという考えは一歩間違えると異質な者を排除することで実現するという方向に走ってしまう。例としては、国の独立を勝ち取らなければ制度を確立したり維持したりすることができないから、犠牲者が出ても体制の確立が優先となるようなケースがあるだろう。どうしようもないケースもあるだろうが、現実的な対応はともかく、権力者がまずすべての人の自由を志向していないと駄目だ。「ああいう人には負けるわけにはいかないんです」などと言って事実を曲げるような指導者を支持するのは破滅の入り口だ。

例えば、事故の通報が制度上義務付けられているのに、通報すれば責任者が権力闘争に負けるのを恐れてもみ消したりすることもある。情報隠蔽は腐敗の原点で、一見事なきを得たように見えても後で深刻な影響を及ぼすことがある。砧教会の金井美彦氏、佐分利正彦氏が結託して総会決議違反を行い、しかもその事実を隠蔽したことで約3年を経ても不快な思いをする人が出続けていて、私は主任担任教師と教会役員会によって今も迫害されている。自己保身の情報隠蔽は悲惨だ。「わたしが行う業」が実施されるべき教会がそんなことでは困る。

ちなみに、2023年5月3日付のキリスト新聞の『米調査 宗教者の6割が「神への信仰と道徳は必ずしも結びついていない」と回答』に道徳という単語があるが、道徳は宗教的な思想の影響下にある。天皇を中心に置く国の道徳は権力の集中を指向する。キリスト教国でも王政であれば同様の傾向を有する事がある。現代では、権力の過度な集中が不幸を生むことは多くの人に理解されているが、それでも繰り返し過ちを繰り返している。

自分の人権が侵害され、自由が失われれば誰でもがっかりする。大義があれば自分の生命が危機に瀕しても耐えられたり、他人の生命を危機にさらしても耐えられることもあるだろうが、そんなシーンはないに越したことはない。道徳を自由の確立に向けるか、イエスの正当性の確立に向けるかは似て非なるものだ。

引用した記事の元記事は、2023年4月20日付のMost adults in US, 16 other nations say belief in God, morality not always linked。さらに元記事となるのは、Many people in U.S., other advanced economies say it’s not necessary to believe in God to be moralでとても興味深い。一般に右派のほうが道徳は信仰に連動すると考える傾向が強く、日本であれば本当にそう思っているか否かはわからないが、靖国神社を信仰の対象にするのが道徳的に正しいと考えるようなものだろう。スウェーデンは右派、左派に限らず、約9割の人が道徳と信仰は関係ないとしているのが印象的である。イスラエルの右派は連動しないと考えている人が43%と半数を割っていて、ポーランド、アメリカがほぼ5割で続いている。宗教に価値観を結びつけると教条的になるのだろう。サンヘドリンも同じ罠に堕ちたのだと思う。当然ながら、無宗教の人は道徳と信仰は関係ないと9割の人が思っている(例外はドイツとシンガポール)。アメリカでは、黒人プロテスタントと、白人福音派が突出して道徳と信仰を結びつける傾向が高い。置かれている立場の違いで、未だに虐げられている黒人は自由の確立に向けて宗教に頼り、白人福音派は自分は宗教的に王道にいると思いたいのかも知れない。数字をどう読むかは人によって違うが、データがあることで検討できることは増える。それぞれの立場を想像しながら、共に生きていける未来を探るしかないだろう。違うからといってバカとか言っても問題は解決しないし、考えが一致する未来はおそらく永遠に来ない。ただ、道徳は宗教と結びつける必要がないと考える人が多いほうが、共通の価値観を模索するのは容易になるだろう。若い人のほうが、必要がないと考える人が多いのは教勢上は不利でも社会にとっては良いニュースととって良いだろう。同時に、スウェーデンでも結びつけて考える人が9%いるのも良いニュースだと思う。合意だけに頼るのも適切だとは思わない。

新約聖書を読むと、イエスの教え、あるいはパウロの教えは万民の自由の確立に大きく振れている。その考え方に学ぼうとする限り、道徳と信仰を結びつける必要はないが、その考え方を確立するために力を得ようとすれば宗教と結びつけた方が手っ取り早い。改めて考えてみれば、自分の道徳的な価値観はキリスト教の影響を大きく受けているが、道徳的な価値観と宗教を結び付けなければいけない理由はない。言い換えれば、宗教指導者が右に行けと言えば右に行くのが正しいと思うのは合理的だとは思わない。指導者がどう言おうとも直接神に問いながら是々非々で行動すればよいのである。人への依存は自由の放棄にほかならない。

「わたしは道であり、真理であり、命である」はパワフルなメッセージだが、一歩間違えれば教会が権力をもつことになる。正当性が問題になる時は、危険な状況であることを意識するべきだろう。教団は、人間の集団だから権力争いから自由になることは困難だが、今わかっている事実をもとにイエスだったらどういう判断をするのだろうかと考えることが許容されていれば機能するだろう。権威を振りかざすようにならないように注意しなければいけない。

並行箇所もなく、本当にイエスが「わたしは道」と発言したかは怪しい。しかし、私はイエスが唯一の道と考える考え方に立っている。同時に、聖書に書いてあることを道徳的価値観に直結させることはできようもない。それでも、イエスに聞くことも従うこともできるし、復活のイエスは今も働いていると信じている。唯自分のためにではなく、万民のために真理を求めて進みたい。