新生活139週目 - 「弟子たちを派遣する」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「主の昇天 (2023/5/21 マタイ28章16-20節)」。マルコ伝16章、ルカ伝24章に部分的な並行記事がある。

福音朗読 マタイ28・16-20

 16〔そのとき、〕十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 

福音のヒントの教会暦で「主の昇天の祭日は40日目の復活節第6木曜日ですが、日本のようにキリスト教国でない国では日曜日に移して祝われています」と書かれている。日本基督教団の教会暦でも昇天日は5月18日(木)となっている。Wikipediaでは、キリストの昇天という記事がある。英語版と日本語版では記載に差がある。

In modern times, a literal reading of the ascension-stories has become problematic, due to the differences between the pre-scientific cosmology of the times of Jesus, and the scientific worldview that leaves no place for a Heaven above earth.

現代では、イエスの時代の前科学的な宇宙観と、地上に天国が存在しないと考える科学的な世界観の違いから、昇天物語を文字通りに読むことが問題になっている。

イエスの昇天を冒頭の画像にあるようなイメージで捉えるのは直感的でわかりやすいのだが、ちょっと落ち着いて考えれば、上に行っても宇宙空間があるだけでそこに天国はないことはすぐ分かる。聖書の著者、編者が騙そうとする意図がなかったとしても結果的にミスリードになっていると思う。日本語版では、どこで昇天したかについて長く書かれているが、場所が書かれていればそこに行ってみたいと考える人は出るだろう。しかし、冒頭の絵のようなシーンがあったと考えるのは現実に合わない。昇天までの40日間をどう理解するか、昇天というイベントをどう理解するかは真面目に考えるとわけが解らなくなる。

福音のヒント(1)に「『イエスの弟子たちにも疑う心があった。しかし、イエスの力強い言葉を聞くことによって、信じる者に変えられていったのだ』と語りかけようとしているのかもしれません」とある。福音書の記述には史実の記録とともに使徒の権威化が含まれているように思われ、昇天の箇所には後者の側面を感じる。書簡は人間が書いたもので、理解の表明となるから初期のキリスト教徒の考え方が伝わってくるのが興味深い。もちろん当時は今の宇宙観とは違うから、その時期の宇宙理解を想像しながら読むことになる。一方、福音書はイエス伝だから本来そこに嘘や創作が紛れていると本当にあったことと捏造されたことの区別がつきにくくなる。イエスの教えを広げていくにあたって、話者によって言うことは変わってしまうから、誰が本当のことを言っているのかわからなくなってしまう。もちろん使徒間での論理矛盾も起きたはずだ。

今日の聖書箇所で私が一番気になるのは、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」という部分だ。私は、復活後昇天前のイエスが弟子たちに会った時にこの発言はあったのではないかと考えている。生前のイエスも言っただろうが、復活して物理的な存在として動いていた40日間があるのであれば、その期間にその発言がなかったとは考え難い。パウロには昇天後のイエスが語りかけ信者となった。弟子を介さずに直接イエスが働きかける事例となっている。一方で、洗礼を授けるという行為には正当性が伴わなければならない。プロテスタント教会にはその正当性はない。しかし、パウロの系譜にも正当性はない。イエスが直接働くということはそういうことで、正当性に依拠するだけでは足りないことが分かる。

正当性への依拠は差別の源泉となる。イエスは正当性や適法性より本質を見よと繰り返し述べてきている。同時に、正当性を否定しているわけではない。イエスは弟子たちの正当性を保証したように読めるが、聖霊は直接下るものだ。ペンテコステの前のこのイベントの存在は、その二重性について考えさせることになる。その二重星に単一の答えはない。整合性を取るために共通の信条の告白を機能させているのだろう。

昇天の記事をどう読むか。残念ながら、私には自分自身の死後のことをイメージすることはできない。ただ、死んでもイエスは私のそばにいてくださるだろうと思っている。今も共におられると信じている。そばから見られているという思いをもって真実の道を踏み外す事なく歩みたい。

※画像はボストン美術館にあるJohn Singleton Copley: The Ascension。Wikimediaから引用