新生活140週目 - ペンテコステ「イエス、弟子たちに現れる」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「聖霊降臨の主日 (2023/5/28 ヨハネ20章19-23節)」。福音のヒント(1)にあるように今年の4月16日の箇所、毎年の復活節第2主日に含まれる。ペンテコステの記述がある第一朗読を引用する。

第一朗読 使徒言行録2・1-11

 1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。 
 5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

五旬祭 Πεντηκοστῆς (Pentēkostēs)という単語は使徒行伝20章と1コリ16章の3箇所でしか使われていないようだ。しかし、ここからキリスト教がユダヤ教から枝分かれしたと考えてよいだろう。Wikipediaによれば、ユダヤ教のシャブオットの事らしい。つまり、ユダヤ教の慣習に沿って集会を行っていたら常ならざることが起こったという記述となる。ペンテコステもシャブオットも英語版のWikipediaはとても長い。自動翻訳の精度が上がってきているので参考になる。

学生時代に友人が(記憶が不確かだが)ペンテコステ派の教会に行って霊が降りてきた体験を語っていたのを思い出す。正直に言って怖い(危ない)と思った。異言の話も出たと記憶している。その体験の前後で少し人が変わったように思う。個人的には、悪くない事象だったのではないかと考えているが、実際に何があったのかは分からない。機会があれば、彼とその話をしてみたいと思っている。

ガリラヤはローマ街道が通っていた場所で、多くの言葉を耳にすることができたと思われる。例えその言葉を理解できなかったとしても脳に何らかの影響を与えていただろう。何かのきっかけで、回路がつながることはあるかも知れないと思う。異常なことだが、この奇跡が無かったとは言い切れないと思う。

イエスの噂は広がっていて、イエスの弟子を自認する人たちにこの軌跡が起きれば、何かが起きていると感じた人は少なくなかっただろう。何が起きているのかを知りたいと思った人が増えれば、イエスが何者だったかを調べることになる。その過程で、伝承が整理され、福音書が作成された。関心を持った人たちの中に金持ちがいれば、資金も得られただろう。使徒行伝はイエスが死刑になってからの記録をまとめたもの。だから、資金提供者の思惑も含まれている可能性は高いと思う。だから、文字通りに受け取ることはできないが、私は何かはあっただろうと考えている。

ペンテコステの前に復活のイエスに会ったという弟子たちの体験談は、ペンテコステのあり得ない異言イベントと共に広がっていったのだと思う。

この時期は、明日にでも世の終わりは来ると喧伝されていた。そういう異常事態だと、蓄財していても無駄ということになり、原始的な共産体制が成立した。経済的に見れば、新興宗教が一気に資金集めに成功したということになる。もちろん、そういう非日常的なことが長続きすることはないと考える人も多かっただろうが、とにかくキリスト教会は自走可能なレベルに達したのだと思う。旗が立たなければ人や金を集めることはできない。逆に金が集まるようになれば、それをどう使うかが問題となる。ただ、イエスの平等と人権尊重の思想は曲げられない。2000年を経て振り返れば、この頃にパラダイムシフトは起きたと言ってよいだろう。

特にこの異言の奇跡の意味は大きい。ユダヤ人、ユダヤ教徒の人権という視点ではなく、全ての人達にメッセージが発信されたという噂は驚きをもって受けいられたのではないだろうか。倫理規範が動けば、社会に甚大な影響を及ぼす。

ユダヤ教の正統派は不快だっただろう。イエス殺しの汚名を着せられ、世論の支持が落ちれば、それまで通すことができていた無理が通せなくなる。常識的に考えれば潰しにかかるのが自然だろうが、事実上独立を失っていた政権は守勢を強いられたのではないかと思う。利権の奪取の道具としてキリスト教が利用された側面もあっただろう。伝統的な国家観に立って美しい国を取り戻そうとした勢力は完敗して国としてのユダヤ・イスラエルは完全に終わった一方で、国家とは違う形でキリスト教会は2000年を経てもなお健在である。

組織は老いるし腐る。キリスト教会も宗教指導者もその罠から逃げることはできない。しかし、道を真っ直ぐにせよというメッセージは直接個人に降る。ペンテコステで起きたことは現代でも起こり得る。そして何が本物かはわからない。

※画像は、Wikimediaから引用したPentecost by Julius Schnorr von Carolsfeld. Woodcut for "Die Bibel in Bildern", 1860.