新生活141週目 - 「イエスとニコデモ」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「三位一体の主日 (2023/6/4 ヨハネ3章16-18節)」。並行箇所はない。イエスとニコデモは3章1節から21節までの長い箇所で、その一部が切り出されている。

福音朗読 ヨハネ3・16-18

 16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。

三位一体の主日について、福音のヒントでは「「三位一体」という神学的な教えを考える日というよりも、イエスの受難・死を見つめ、その復活を知り、聖霊降臨を祝ったわたしたちが、神の大きな救いの出来事を振り返り、父と子と聖霊の働き全体を味わう日だと考えればよいでしょう」と書かれている。三位一体節はこの日から待降節までの最も長い時期で、日常が続く期間と捉えている。つまり、今のことと理解している。伝道の時期とも取れる。なお、イエスが三位一体と言ったとする確からしい記録はない。人間たちが、そう解釈するのが適切だろうと決めたのが事実であり、それを告白できなければ教会が信者とは認めないと決めたのだ。信仰告白をしていない、しないと決断していても、すばらしい行動ができる人はいる。「信じない者は既に裁かれている」という言葉には強い違和感がある。

日本語版のWikipediaのニコデモは簡潔でわかりやすい。宗教改革時からのニコデモ主義についても言及されている。ニコデモが実在する人物であったかもわからないし、イエスとニコデモの会話があったかも分からない。ただ、サンヘドリンに属する人たちの中に、イエスは本物ではないかと考えていた人は存在していたと私は思っている。権力の座にある人は権力を振りかざすこともできるが、同時に制約される側面もある。体制を維持するためには自分の思いのとおりに振る舞うことは難しい。イエスはメシアであると表明することは、政治的自殺行為と言える。2節で「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」と書かれている。「わたしどもは」が誰を意味するのかはわからないが、ほぼ全ての英語訳ではwe knowと訳されている。只者ではないと考えていた人がいなかったとは思えない。しかし、サンヘドリンの上級職者は自分たちこそが正当な神の代理人だと自分たちを位置づけているわけだから、突然現れたイエスを認める訳にはいかない。しかし、事実を見ない訳にもいかない。ニコデモはサンヘドリンを離れても生きていける自信があったのではないかと思うが、権力に守られて生きているメンバーは事実より体制の防衛を優先するのは自明だ。落ち目の組織では特にその傾向が顕著に現れる。ニコデモはサンヘドリン側が間違っていると考えただろうが、既存の権力を壊す合理性は感じていないように見える。

イエスは本当に「信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」と言うだろうか。私は、どうもしっくりこない。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とあるが、私は「独り子を信じる者が」という限定なく全ての人を救う使命感をもっていたのではないかと考えている。だから、律法学者などを激しく糾弾するが、どちらかと言えば、目を覚ませと言っているように取っている。誰かを踏み台にして生きようとする行為はやめよと言っていると考えている。

信仰告白は本来極めて個人的な行為だ。一方で、イエスが神であると公に告白するということは、告白しない人との間に明確な線引をすることになるから社会的な行為でもある。教会という組織は差別の源泉となる。教会の有力者がイエスの教えに沿った行動が取れているか否かは、教会の権力構造が強くなればなるほど危なくなる。中絶の判断で意見を変えたり、同性愛を犯罪扱いするか否かでルールを変えていくことは容易なことではない。あまりにフラフラしていれば信用を得られないし、硬直的になれば犠牲者を生む。そういう意味では、サンヘドリンもバチカンも、あるいは各個教会も例外ではない。権力者も判断を誤ることはある。悪意の有無は関係ない。問題は判断を誤ったと考えた時に是正ができるかどうかが問題となるだろう。

個々人にとっては組織的判断より、自分が真理だと思うことに忠実に従えということになる。サンヘドリンに限らず、正当性を維持する役割を担うものは、疑義が提示された時に真実に向かい合うことができなければ長期的に見た持続性は得られない。逆に言えば、キリスト教会が2000年継続しているということも、ユダヤ教が続いているのも、様々な新事実に向かい合ってある程度修正できてきたということになるだろう。

ニコデモはイエスと会ったのに公に信仰告白をしなかったことを批判する意見が出るのはもっともだ。一方で、その信仰告白で権力を失って無力になるより、心に秘めたまま良い方向に組織や社会を変えていく努力をするのが望ましいとする意見にも合理性がある。ニコデモはキリスト教界に後に大きな影響を与えたとする説もあり、カトリックなどでは聖人とされている。そもそも誰かを聖人と決める行為自身がおかしいと私は思うのだが、初期の教会はニコデモの行為を許容したということだ。

私は、イエスとニコデモの物語は恐らく無かっただろうと思っている。ただ、サンヘドリンに属していた人の中からキリスト教に改宗した人はいたのだろう。ニコデモという人物は実在したと思うが、象徴的に神格化されたのではないかと疑っている。実際には完全無垢な人など存在し得ない。一方、組織的にはロールモデルを作る合理性はある。仮に聖人が内定しているとしても、善き業に学ぶのは良いが、個人についていくのは適切ではない。

3年前、砧教会の金井美彦氏、佐分利正彦氏が教会総会決議に反して会堂を開いた2020年6月7日は教会暦で言えば、三位一体主日だった。彼らは、自分たちが犯した過ちに向かい合うことができず、今も私を排除することで問題を解決しようとしている。役員会にもニコデモはいるだろう。恐らく、金井美彦氏、佐分利正彦氏は悔い改められなければ全てを失うことになる。私は、本件に関しては真実に忠実に生きることに決めている。もちろん、私が間違えている可能性は否定できない。ただ、金井美彦氏が教会員の面前で私に向けて「あなたには砧教会で一切の権利はない」という独裁者の言葉を放ったのは事実であり、再三の求めに応じず教会総会で是非を審議していないというのも事実であり、当人が関係する教会議事録を非開示にしているのも事実である。私は、日本基督教団は按手礼の撤回を審議すべきだと思っている。その向こうにキリスト教の真実があるはずだ。組織は頭から腐るものだ。腐敗が進む前に軌道を修正しないといけない。

※画像はHenry Ossawa TannerのNicodemus and Jesus on a Rooftop。現代の価値観で物語が絵にされていて、対等感に満ちている。