新生活142週目 - 「イエスは命のパン」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「キリストの聖体 (2023/6/11 ヨハネ6章51-58節)」。並行箇所はない。イエスは命のパンは22節から59節までの長い箇所で、その一部が切り出されている。

福音朗読 ヨハネ6・51-58

 〔そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。〕51「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」 
 52それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。53イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。55わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。57生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。58これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

53節の「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」はあまりに衝撃的な言葉だ。イエスがこのような生々しい表現を使ったとはにわかには信じられないし、今日の箇所の後、60節で「弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。』」とあるのは自然な感じがする。正直、同感だ。もちろん、この肉と血は聖餐を意味すると考えるのが適当なのだろうし、聖餐を重視する考え方はプロテスタントであっても変わらない。ヨハネ伝だけの記述であり、当時の教会指導者の解釈が強く出ているのだと思う。ヨハネ伝はイエスの権威付けが強烈で、脅しに近い記述が多い。よく気をつけて読む必要があると思う。ただ、ここまで生々しい記述は例を見ないもので、教会指導部がそうとう排他的で権威主義的であったことが想像できる。もっと牧歌的な伝道はあったはずだが、勢力を伸ばしたのはヨハネ伝の系統だったのだろう。

福音のヒント(3)では「ヨハネ福音書にとって『イエスを信じること』と『聖体をいただくこと(イエスの肉を食べ、血を飲むこと)』は別々のことではなく、1つのことと考えられているのでしょう」とある。ちょっと距離をおいた感じの意見が表明されている。実際は当時の教会はどういう状態だったのだろうか。純粋に福音に熱心な人達はいたに違いないが、公会議が開かれた史実からしても、解釈が一致しないことは少なくなかったはずだ。教義を明文化するインセンティブは高かっただろう。当然、勢力争いもあったはずで、それが理由で信仰を失った人もいるだろう。果たして、生き残ったほうが正しかったのかどうかは分からない。本当はどうなんだという追求は現代でも変わりなく続いていて、聖書学者の解釈は必ずしも教会の正統とされる解釈と一致するわけではない。LGBTをどう捉えるかという観点でも当然聖書解釈は揺れる。保守的に過ぎれば2000年という長い期間を乗り切ることはできなかっただろう。

ともあれ、聖餐の伝統は今のところ守られている。

58節には、永遠に生きるという記述があるが、考えてみるとよく分からない。当時、不老不死が幸せだと思えたのだろうか。むろん、事故や病気による死は残念なことだが、老いて機能を失いながら永らえることに対する恐怖がないとは思えない。死んだ後に自分の存在が何らかの形で継続する、あるいは、一旦凍結されても復活するのであれば、それはそれで良い。しかし、それが何を意味するのかは分からない。望むのは、良い人生を送りたいという思いである。人の心の中はわからないので、それぞれの人がどう考えているかはわからないが、心から刹那的に生きたいと思っている人は多数ではないように思う。境遇やさまざまな影響で短気になることはあっても、それを善しとしているかは分からない。当時の人はどうだったのだろうか。今の言葉で言えば、ローマによる専制と隷従が強いられていると感じる人もいただろうから、キリストを信じれば自由が得られるに違いないと信じた人もいるだろう。実際に、キリスト教を信じることで、自由と人権が拡大した人はいると思われる。犠牲者、殉教者も出ただろうが、マクロに見れば幸せは増大したのだと考えている。

殉教者は救われると説くことは効果的だったかも知れない。自由のために戦った人の恩恵を受けた人も少なくないだろう。自分は戦わずに、誰かに戦わせた教会指導部の人もいただろうと思う。マクロで見れば良い効果を産んだかも知れない。しかし、それを善しとして良いかは議論が分かれることだろう。

私は、今日の箇所は陪餐権の独占による教会権威化の起点と考えている。それでも、キリスト教が勢力を拡大したことで、この世において救われた人は多い。そういう現実を見据えた上で、自分がどう生きるかをイエスは問い続けているように思う。そして、突然復活のイエスが直接影響を与えることもある。ヨハネ伝には出てこないが、パウロの台頭は象徴的だ。人間イエスの直弟子ではないが、彼の活動がなければ今のキリスト教会は存在し得なかっただろう。コリント前書11:23からの「主の晩餐の制定」では、パウロが「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。」と書いている。彼はその場にいたわけではないが、「わたし自身、主から受けたものです。」と言い切っている。単純に解釈すれば本質を追求せよという話だ。もちろん、自分の権威も否定している。彼は伝道者だが、言葉が届いたらその次は本人が真理を追求するしかない。

最後の晩餐はユダヤ教の過ぎ越しの祭の食事で、生贄の羊の血を門に塗ることで神罰から免れることができたという出エジプトの物語を思い起こさせるユダヤ教の儀式だ。キリスト教の解釈は、人間イエスは当時の現代版生贄の羊で聖餐を受けることで過ぎ越しがかなうというものだ。初期のキリスト教徒は、近いうちに再び過ぎ越しが起きると考えていた。出エジプトの過ぎ越しの事件が史実だったかどうかはわからないが、その存在を信じることにし、それを記憶に留めるために過ぎ越しの祭は儀式化されている。守れないものはユダヤ教的にはアウトだ。聖餐はそのキリスト教版の焼き直しということになる。ただ、復活信仰の確認の儀式となっている。人間イエスは、形だけ律法を守っても無意味だと言っていたわけで、パウロは聖餐を差別の起点にしてはいけないと言っているように読める。コリント前書の箇所は聖餐をホストする者への警鐘のメッセージでもある。

最後の晩餐とその席上で、イエスがそれを(聖餐として)記念せよと言ったのは恐らく事実だろう。

しかし過ぎ越し祭りの食事同様、形だけ守って続けているだけでは意味がない。「だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。」は極めて重要な警句だろう。ヨハネ伝の「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」は本質を追求して純化した解釈と読むことはできる。問題は、聖餐式をホストする権威は何かということになる。砧教会の初代牧師の浅野順一氏は、受洗と陪餐を切り離して考えていた。受洗者でも今自分はふさわしいと思わないなら受けない自由があり、未受洗者でも今自分がふさわしいと思えば陪餐して良いという考え方で、異端とされるものだ。パウロの「だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。」に沿うものだとも言える。一方で、ふさわしいかふさわしくないかについては統一した判断基準があるのが望ましい。人殺しをしていても自らがふさわしいと思えばOKという自由さは安全安心を損なう。一方で、イエスが罪人と食を共にしたことも忘れる訳にはいかない。ホストは差別してはいけないと考えるのが自然だと思う。

キリスト教会は、自由で人権が守られる望ましい社会規範を確立することを組織の使命としていると思う。もし、教会や教会の指導者が自由や人権を害する存在になってしまったら目も当てられないが、繰り返し過ちを犯してきた。善意と人徳のあるように見える人が運営していてもなお自浄作用を機能させるのは非常に難しいのである。

陪餐がふさわしい条件を検討していけば、信仰告白をしていて十分な訓練を受けた教師によって認証されているべきだという考え方はおかしくない。私はルールとして理にかなっていると思う。しかし、ルールが適切だったとしても形だけ守っていても意味があるとは言えない。聖餐式が差別の起点になることもある。本質に照らせば、ルールに即していなくても「だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。」が優先されてよいだろう。それは一つの奇跡で、陪餐者が自分はふさわしいと心から思えて、かつ、ホストがルール違反であっても聖餐を共にすることがふさわしいと思えなければいけない。現実には、そんなことはほとんど起こらないが、起きる時には起きる。

現在の砧教会は金井美彦氏が私は陪餐会員にふさわしくないと排除し、役員会は組織としてその判断を支持している。つまり、彼が差別の起点になっていて、組織防衛に汲々としている役員会はその排除が本当にふさわしいことかを問われ続けている状態にある。私が存在することによって、事実を知るものは自分のふさわしさが問われることになる。私は、金井美彦氏に悪意があるとは思っていないが、自らの誤りと責任の存在を認め、告白すべきだと思っている。事実に向かい合わずに未来が開けることはない。仮に時効があって罰を逃れられたとしても、それは罪を無にするものではない。

福音のヒント(4)にあるように、聖餐を「神とのつながり、人とのつながりによって生かされたいのち」を確認する機会と捉えるのが良いと思う。伝道は全ての人が神とつながっているということを知らせる活動で、それをどう受け取るかは自由、自ら確かめるものだ。形式的でない真の聖餐とは何か、都度見つめ直すのが適切だと思う。よく考えると、自分の信仰告白とは何だったのか問われていることに気づく。

※冒頭画像は19世紀のウクライナの民衆版画でユダヤ教の過ぎ越しの食事を表しているとされているWikimediaからの引用。ここから最後の晩餐を想像すると、ダビンチの最後の晩餐とは異なるイメージが湧いてくる。