新生活143週目 - 「群衆に同情する〜十二人を選ぶ〜十二人を派遣する」

hagi に投稿

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第11主日 (2023/6/18 マタイ9章36節~10章8節)」。「群衆に同情する」の部分は、ルカ伝10章の「七十二人を派遣する」の一部と関連し、「十二人を選ぶ」はマルコ伝3章とルカ伝6章に並行箇所があり、「十二人を派遣する」はマルコ伝6章とルカ伝9章に並行箇所がある。ちなみに、ルカ伝の七十二人の派遣に関する記述は他の福音書には記述がない。マルコ伝では、十二人を選んだ理由は派遣するためとあり、派遣のタイミングより前に読めるのに対し、マタイ伝では直前、十二人の名前は一致している。ルカ伝ではタダイの代わりにヤコブの子ユダとあり微妙に異なる。タイミングはマルコ伝に近い。マルコ伝では、十二人を派遣する際に二人づつで行動するように指示している。ルカ伝の七十二人も2名単位で送っている。

福音朗読 マタイ9・36-10・8

 そのとき、イエスは、9・36群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。37そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。38だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」 
 10・1イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。2十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、3フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、4熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。 
 5イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。6むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。7行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。8病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」

弟子の派遣はとても大きなイベントと言える。イエスと弟子が共にいるうちは弟子は常にイエスに依存している状態にあるのに対して、派遣されれば自分あるいは仲間に頼らないといけない。二名づつの行動だったとすると当然意見が割れることはあるだろう。二名で相談して統一意見を固めていったのだろうか。派遣後に意見が割れた件をイエスに確かめたと思う。派遣は何度あったのだろうか。「汚れた霊に対する権能」はある種のスーパーパワーでそれがどういうものだったのかは容易には想像できない。現代的に解釈すれば、治療可能な病気の診断方法と治療法だったのかも知れない。まじないとは違う新たな方法で病気が治癒したら相当な話題となるはずだ。もちろん、できることとできないことがある。失敗すればまがいもの扱いされただろう。ガリラヤはアラビアを含め色々な人が行き来した場所だからイエスは何らかの医療知識も身に着けていて、伝授可能なものを教えたのかも知れない。実際はどうだったのだろうか。復活の記述から考えても、何らかの奇跡が起きたことがあるのは間違いないだろうが、派遣された弟子が簡単に再現できるようなものだったとはとても思えない。

福音のヒント(1)に「イエスは「飼い主のいない羊のような群衆」を『収穫』と呼びます」とある。これは、当時の常識からスポイルされてしまっている人には可能性があり、収穫はその可能性を発揮させることだと解釈している。覚醒していない人々が大多数で、かつ覚醒すれば大いに力を発揮して自分も周囲も自立させることができると考えたのではないだろうか。覚醒した人は、周囲を覚醒させる側に変わる。私は社会学的に見た伝道の本質だと思っている。

誰でも、自分の置かれている境遇で様々なことを諦める。無理に挑戦して痛い目にあったり生命を失うようなこともある。もう失うものは無いと思うほどの人の目に灯りが灯ることでとんでもなく人が変る事例はあっただろう。あなたは本来自由な存在なのだ。親族が罪人でも、本人が過去に罪を犯していても、あなたには常に挑戦権があると説かれれて人生が変わった人はいるだろう。前向きに変わった人が出現して、何らかの社会的効果が現れた地に今度はイエスが弟子たちを連れて訪問したら、伝道的には大きな加速効果があったと思われる。自分が慣習や常識に支配されていて本来の能力を発揮できていないことに気がついてしまえば、奇跡がなくても起き始めた社会の変化は続くだろうと思う。

ただ、その変化は弟子の力に拠るものではない。覚醒は、当人の心に声が響くことによって起きる。情報を伝えること、福音を伝えることはできるが、人の心を覚醒させることは容易にできることではない。聖書的に言えば、聖霊の働きなしにできることではない。そして、多くの覚醒体験は一時的なもので長期間持続するものではない。教会的には、継続的な礼拝出席と聖餐がその持続性を高める活動となる。弟子やイエスによって覚醒した人々もやがて冷める。それでも行動が変わって手応えがあった人は冷めても恩恵を受けただろう。一度冷めても再び熱くなることもある。ペンテコステの噂と、福音活動の広がりが信じる心に大きく影響を与えたのは間違いないだろう。恐らく、一番大きな影響を受けたのは弟子たちだと思う。教会も信徒を送り出さないといけない。

いろいろな解釈はあるだろうが、私は福音は自由の宣教だと思っている。ふと気がつくと地上の権威や権力に隷従していることがある。バチカンであれ、各個教会であれ、国家であれ、コミュニティであれ、自ら自由を放棄してしまっている事例は多い。互いに人権を侵害することのない自由の確立はほとんど無理なのだが、その方向に向かって動くことは可能である。従来正しいと思っていたことが違っていたと気がつくことがしばしばあるように、今良いと思っていることが本当に良いのかは実は知ることはできない。情報を収集しながら自分で判断するしか無いのである。一つ言えるのは、特定の人や権威に隷従してはいけないということであり、逆に言えば他人から隷従されてはいけないということだ。容易なことではないが、肝に命じておく必要がある。

※冒頭画像はWikimediaから引用したTissotのThe Exhortation to the Apostles