プリゴジン事件に考える

昨日からのロシア反乱事件は、本当に何が起きているのかよくわからない。時間が経過すれば何が起きていたのか分かってくることもあるだろう。

Twitterで読んだ中で、一番共感できたのはこのツイートだった。

ロシアのウクライナ侵攻は止めてもらいたいと思っているし、身についてしまった習慣、常識は容易には変わらないけれど、生まれてくる場所も性別も自分で選べるものではないのだから、それで受ける不利益は少ないほうが良いに決まっていると考えている。プリゴジンのやってきたことは許されて良いことだとは思わない。刑務所からワグネルに直行して戦っている人、戦わされている人も自分ではどうにもできないことはあるだろうが、人殺しは人殺しだ。常識的に考えれば、その人殺しの責任はプーチンにあると考えるのは自然なことだと思う。

プリゴジンの問題があったとしても、モスクワ侵攻でプーチンが追われてウクライナ侵攻が止まるなら、それは良いことだと思う。しかし、武力に寄らずに紛争を終結できないのを心から残念に思わなければいけないとも思うのだ。ならず者の相打ちに期待するのは、恥ずべきことである。

ツイートにある、4つの集団が消えて無くなったわけではないから、地獄絵を見なくて済んだとしても力に頼る動きは続く。どうすれば、そういう動きが起きなくなるようにするのかを考えない訳にはいかない。多分、割れ窓理論は的を射ているのだと思う。小さな危ない動きを小さい内に止めることが地味だが社会を変えていくのだと思う。同時に、育ってしまった不適切な権力を無力化しなければいけない。

内輪を大事にする気持ちが油断を招く。自分たちが腐敗していることに気がつくのは難しい。

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