今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第13主日 (2023/7/2 マタイ10章37-42節)」。 段落は34節からで、ルカ伝12:51に並行箇所がある。37節の類似箇所はルカ伝14:26にある。なかなか理解が難しい箇所だ。
福音朗読 マタイ10・37-42
〔そのとき、イエスは使徒たちに言われた。〕37「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。38また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。39自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。
40あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。41預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。42はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
福音のヒント(1)でもカルト宗教のような危険性を感じさせるとあるが「イエスのメッセージのゆえに対立や迫害が起こることは避けられない、しかし、その中にあってもイエスの福音に踏みとどまるように」というメッセージと取るのは自然だと思う。私も、その解釈を取っている。子供の時は、親に依存せずに生きていくことはできないし、親が子供を守らないわけにはいかないが、親も不完全で上手く行かないことは多い。入ってくる情報は情報として受け取るとしても、自分で考えて自分の道は選んでいかなければいけない。そして自分の選んだ道は他人に対しても自分の選択として隠すことなく表明するのが望ましいということだろう。しかし、それは困難な道で良いことばかりではないし、短期的に嬉しくない結果をもたらすことも少なくない。
「わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」は、当時の理解と現在の理解は同じではありえない。天地創造の物語も現代の科学的知見との差異は大きい。「わたしを遣わされた方」はどこにいるのかは想像すらできない状況にある。異星人をイメージする人もいるかも知れないが、高い知性と技術をもった存在であっても物理法則の制約を受けるだろう。神がついていれば戦いに負けないというような信仰心は冷静に考えれば通用するわけがない。終わりの日を想像することもより難しくなっている。西方浄土が存在すると考えることもできないし、聖霊とは何かを科学的に追求することは容易ではない。
一方で、恐らくほとんど全ての人間は成長の過程で自分は何者かという問いに直面する。他者との関わりで自分とは何かを考えることになり、伝道を受けるとイエスのことを知り、「わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」という言葉を知る。この言葉を信じれば、イエスの教えを受け入れて従えば正しい道を歩むことができると信じることになる。個人の体験としては、ある意味でこの時点で救いは完結するが、イエスの教えを受け入れて従うという行為には解釈が入るから、一致しないし、様々な理由で従えないことは起きる。誰でも過ちは犯す。
もちろん、イエスの教えを受け入れない人もいる。嘘っぱちだと思う人もいる。私には理解できないが、天皇を神と本当に信じている人もいるかもしれない。王権神授説を信じている人もいるかもしれない。そういう信仰を持つ人は、天皇の言う事を聞いていれば間違いないとか、王の言う事を聞いていれば間違いないと考えるのだろうが、天皇であろうと王であろうと人間である以上間違いは犯す。当然、人間イエスも間違いは犯しただろう。宗教指導者を信奉する人もいるが、完全な人間など存在しない。
現実的な対応としては、神が正しいとする行動を強制するようなルールを作り、それを守ることによって「御国を来たらせる」ことになる。ここで短絡的に考えると、正しければ強い、あるいは強さは正しいと思うようになる。正しいのに弱いと何かが間違っているのではないかと考えることになるが、それは自分たち以外に強いものが存在している状況で、その他者が強くて正しいことが認められない状況となる。旧約聖書を読んでいると、イスラエルは弱い。そして正しくないから弱いのだと繰り返し説かれているように読める。弱ければ独立を保つことはできない。強くなることが正義だと現代のイスラエルの保守派は訴えているように見える。この価値観は、プーチンであろうと、日本の右派であろうと、習氏であろうと似たりよったりだろう。
何とか、平和的に世界を一つにしていきたいと考えても、現実は厳しい。何とか頑張っているのはEUだ。何度も戦争を繰り返し、イギリス、フランス、ドイツなどはそれぞれのナショナリズムを暴走させることのない統一ルールを作り、機能させることに一定の成果を出してきた。とは言え、NATOの存在は、弱くて侵略を許せば、築き上げてきた統一ルールも機能させることができないという現実を示している。また、域内でも自国の独立性、国家主権が制限されることを面白くないと考える人はいて、イギリスは離脱してしまった。ロシアと国境を接しているフィンランドやエストニアは侵略の危機に常に直面している。しかし、私が知る限り、力が正義という価値観が多数意見になっているようには見えない。脅威があれば、ナショナリズムは力を得てしまうが、イギリスのように離脱を指向しているようには見えない。共存のルールの価値を高く評価し、それに伴う責任も自覚しているのだと思う。
イエスは、力は正義だと言わない。「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」は象徴的で、共に生きよと説く。福音書を読んでいると、人間イエスは相当クレバーだが、失言と思われる行為はある。完全無欠だったとは思わない。ただし、まず共に生きよと説き続けたように読める。それがイエスを遣わした神に従うということを意味すると考えるのは自然なことだ。教会は人間の組織でもあるので、力が正義という誘惑に弱い。ロシア正教会はウクライナ侵攻を正統、正義とした。しかし、個々の信者からすると「共に生きよ」というメッセージに従うことを望む人はいる。もし、声を上げれば流血の事態が起きるだろう。保守派の親父と共存を望む娘の対立シーンも見られたのではないか。自分の信仰に基づいて正しい道を選択すれば意見の違いが出ることは多いだろう。親はどちらかと言えば、我が子に面倒が起きない選択を好むだろうし、子はどちらかと言えば、原理原則に忠実であろうとする傾向がある。私の解釈では、イエスは賢く判断することを推奨するだろうが、大人になれというような発言はしない。それが「わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る」ということだろう。
砧教会においては、私は「自分の十字架を担ってわたしに従」うことは牧師と書記、役員の不義を告発し正すことだと思っている。何人かの人に大人になれというような事を言われたが、私は取り下げる意思は全く無い。ただ、自分の正義を通すことを目的にしてはいけないと思っている。それは「御国〔みくに〕を来たらせたまえ。」という祈りにほかならない。必ず道は開けると信じている。
※冒頭の画像は、Wikimediaから参照させていただいたコソボのフレスコ画。「平和ではなく、剣(つるぎ)をもたらすために来たのだ」に対応する絵画はほとんど見当たらない。イメージしにくいからか、教会にとって都合が悪かったのかはわからないが、もっと視覚に訴えるような方法を探してみても良い箇所のように思う。