新生活146週目 - 「わたしのもとに来なさい」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第14主日 (2023/7/9 マタイ11章25-30節)」。 前半部分はコンテキストは異なるが、福音のヒント(1)にあるようにルカ伝10:21からに同じ祈りがある。28節からの部分は並行箇所が見当たらない。

福音朗読 マタイ11・25-30

 25そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。26そうです、父よ、これは御心に適うことでした。27すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」はとても興味深い。知恵ある者も賢い者もかつては幼児であった。NIVではthe wise and learnedと訳されている。理解する賢さがあってかつ学んだ人という解釈もあるかも知れない。知識はある意味で澱のようなものでもあって、本質を見失わせる働きをすることもある。人間イエスも子供だった時期がある。マタイ、マルコには少年イエスは出てこないが、ルカ伝2:41には「神殿での少年イエス」という記事がある。実際の少年イエスがどういう生活を送っていたかはわからないが、彼自身もthe wise and learnedの一人だろう。学びの違いは、聖霊に聞いているかどうかということになるのだろうか。モーセ五書を読んで、イエスが説いた価値観に到達できる人がいるようには信じられない。旧約の神は民族の神で全軍の主という位置づけ。差別的だ。しかし、イエスは同じテキストから学んだのに基盤は愛であると考えるようになった。聖霊が彼を教えたのだろうか。あるいは、全ての人にそのメッセージは下っているのに聞くことができないでいるのだろうか。

一定の教育を受けた現代人は、天国が物理的に存在するとは思えないだろう。地球が極めて小さな存在で、宇宙全体から見れば人間が無視可能なほど小さな存在であるかも分かっている。現代にイエスが現れたとしても、沢山の奇跡を起こしたとしても神と同一視することができるとは思えない。聖書に書いてあることは過去のことだから、昔こういう事があった、イエスは死んで復活したと言われて許容できたとしても、同じ現象が今起きても受け入れるのは困難だろう。ただ、自分の価値観を大きく変えるような変化は今も起きる。多分、それは知識によるものではない。

御利益を求める気持ちと「これらのこと」は次元の異なる話で、ユダヤ民族がローマの支配から脱せられるという御利益求める気持ちが邪悪だとは思わないが、そういう力に頼る転換は「これらのこと」ではない。むしろ、内的な浄化を指すと考えるほうが理解しやすい。そう考えると、天国が物理的に存在しなくても問題とはならない。天国はあなたの中にあると説かれていると考えることも可能になる。あなたの中にある天国は父なる神と繋がっているということであれば、肉体の死に関わらず私は残るという解釈となるのかも知れない。

知恵ある者、賢い者は自分の存在を他人と比較して知覚している。なぜ自分の希望が満たされないのか考える。自分の努力で何とかなることもあれば、社会のルール、慣習の故に思い通りにならないことも知る。社会的強者になる方法も知り、一握りの勝者になることを多かれ少なかれ志向してしまう。ローマに抑え込まれていれば、ユダヤ人が築いてきた律法は適用できない。良い社会を構築するために独立を願うのは自然な事だ。ただ、その良い社会が本当に良い社会なのか、ある一定の属性を持つ人にとって都合の良い社会なのかは容易には分からない。出エジプトを想起すると、ユダヤ人であることで搾取されていたところから自分の国を持つことで、搾取されなくなったのであれば、それはユダヤ人にとっては良い社会が構築できたということになる。かつてそこに住んでいた人にとっては悪夢だ。視野を広げてみれば、良い社会になったとは言えない。

周囲に野心のある国があれば、防衛しなければ独立を失う。軍隊が必要になるが、それは、国民の一部に生命を差し出せと強いることにほかならない。知恵ある者、賢い者は自分や自分が愛する人が派兵されることのない立場を目指すだろう。軍の構成員になったとしても、権力を握れば駒扱いされるリスクは下がる。逆に言えば、賢いものが小賢しく振る舞えば、割を食う人が生まれることがあるということだ。もちろん、他国起点の不当な弾圧から守れなければ、弱者はひとたまりもない。社会的な権力が適切に機能することで、社会の持続性を維持できる。特権階級を作らずに社会を維持できればそれに越したことはない。

なぜかイエスは権力を手にすることで、民を開放するという道を採らなかった。また、弱い者は得られる権利が小さくて当然という考え方に立っていない。

十戒の最後に「隣人の財産を欲してはならない」がある。隣人とは誰かが問題となる。

権力を志向すると隣人は狭くなる。関係の近さはあってもどこまで遠い関係であっても隣人でない人はいないとすれば隣人は全人類に及ぶ。現代であれば、地球環境を構成する全てのものに及ぶという考え方もあるだろう。

短期で見れば、権力の獲得による人民の解放は現実的な道だが、特権は階層化し差別を生み、やがて犠牲者を増やしていく。現実的であることを自認する権力志向者はイエスの教える御心を受け入れることはできず、自分は権利者集団の中心にいないと思っている弱者は、自分が隣人の一人であることに喜びを覚える。

28節からの話は、イエスの集まりに依存して良いという意味ではないだろう。生命を維持するためには、何もしないでいられるわけではない。しかし、一定の人数が集まれば、助け合って生きることはできるようになる。隣人を広く捉える色々な人が集まることで、中央集権的でないコミュニティが持続可能になる。ただ、集団が大きくなれば権力の行使も必要となる。特定の集団として持続性は保つことはできないだろう。教会も壊れ廃る。

福音のヒント(3)に「謙遜」の原語直訳として「心において身分が低い人」と述べられている。権力志向から遠いところにいるということだろう。権力は全て父なる神に帰し、自分に権力はないが、真の権力者の意思が開示されているという立場に立っていると解釈すればよいだろう。現代であれば、バチカンが天につながっている場所と考えるのではなく、SDGsを具現化していく考え方に近いのではないか。自分の身分を高めようと志向するのではなく誰ひとり取り残すことのない世界にそれぞれがそれぞれの才能を活かして貢献していく形を模索していけば良いのだろう。教会は、権力志向から遠い方に向かうのが良いのではないか。

ルカ伝2:41からの「神殿での少年イエス」が実話だったとしたら、何を議論していたのか知りたいと思う。議論の本質は、隣人とは誰かという点だったのではないだろうかと想像している。

※画像はWikimediaから引用したムンクが軛を書いている絵。「わたしの軛は負いやすく」と書かれていても、働かなくちゃだめなんだよなと感じる。当時の人は、その言葉でどういうイメージを抱いたのだろうか。