新生活147週目 - 「「種を蒔く人」のたとえ」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第15主日 (2023/7/16 マタイ13章1-23節)」。 マルコ伝4章、ルカ伝8章に並行箇所がある。福音のヒントは読ませていただいたが、今回は引用しない。

福音朗読 マタイ13・1-23

 1その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。2すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。3イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。4蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。5ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。6しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。7ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。8ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。9耳のある者は聞きなさい。」 
 10弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。11イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。12持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。13だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。14イザヤの預言は、彼らによって実現した。 
『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。 
15この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。 
こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』 
16しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。17はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」 
 18「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。19だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。20石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、21自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。22茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。23良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

イエスが神として認識されてから、この物語を読むと、種蒔く人はイエスまたは伝道を行う人という解釈が自然にできるが、リアルタイムでこのたとえを聞いた人は、そう受け取ることは困難だと思う。聖書という前提を忘れれば、純粋にそういうことはあるよな、と取るだろう。私なら、良い土地を準備して、種を蒔けば育つ、以上という感じに取る。18節からの解説を読むと、種はメッセージで、土地は人の状態を表すと取れる。もちろん、自分の心の問題として読むことになる。メッセージを的確に捉え、それを行動に移し結果を出せたら良いと思わない人が多分いない。しかし、送られたメッセージを取りこぼすことも、早とちりして誤解することも、聞こえても現実を見て行動に移さないでいる間にいつのまにか忘れてしまうこともある。

私の記憶では、中学一年生の時の学校の先生の礼拝説教で聞いたと憶えている。小学生の時から教会学校には通っていたから本当はそれより前に触れていたのは間違いないと思うが、毎日礼拝に出る習慣が記憶の定着につながったのだろう。同級生は40人いて、信仰告白した友人はわずかだが、恐らく全ての人がこの話は憶えているだろう。それから50年が経過したが、それぞれの人に蒔かれたメッセージは実を結んで30倍以上になっただろうか。

そもそも実を結ぶとは何を意味するのか。

ヒントは「茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である」にあると思う。人生は選択の連続である。私の言葉にすれば、「まあ良いか。これくらい誰でもやってるし」である。本当は善い道は恐らくあの道なんだけど、こっちの方が楽そうだし、儲かりそうだし、支持が得られやすそうだから、こっちに進もうという話だ。あるいは違法じゃないからOKという判断だったりする。現実的には、いちいち善い道を選びながら生きていくなどということはできない。できるのは、小さなことでもちょっとだけでも善いことをやろうとするくらいだろう。一日一善と言っても良いかも知れない。小さなことでも倦まずに繰り返していけば蓄積されていくし、「まあ良いか」も習慣化すれば社会を劣化させる。権力者の不誠実はその典型だし、草の根運動の底力も無視できない。

本当のことはよくわからないが、私は同級生を見る限り、信仰告白とは無関係に御言葉は心に入って根付いているのではないかと思っている。自分で考えて自分で様々な選択を50年間行ってきた結果、それぞれの今がある。信者でない人に対してキリスト教が正しいと言うつもりはないが、福音を伝えるのは望ましいことだと思う。

強さを指向するのではなく、救いを指向するのが原点だ。

63年生きてきて、過去と比較すれば社会は良くなっていると思う。良いことばかりではないとは言え、死んでしまう子供は減ったし、街は安全になった。同時に、軍事に投入されるお金はずっと増額しているという情報もある。投入され、開発された武力が人の生命を奪っているのも現実。まだ全世界が安全な状態にするという未来は見果てぬ夢であり、安心して過ごせる豊かな社会の構築に向けて開発された技術が地球温暖化を招いているのも現実であり、持続性を確保するためには今後相当な努力や我慢を必要とする。それでも、SDGsがかなり認知されるようになり、国を超えて協力できることも増えている。

道は遥かに遠くても、誰一人取り残すことのない社会を目指して歩もうという救いの教えがイエスのメッセージだと思う。恐らく私が信仰告白したのは、福音を述べ伝えよという御言葉が私に蒔かれたということなのだろう。自分にできる範囲で、メッセージを伝えるのは私の使命の一つだと思う。それは能力とは関係なく、自分の希望とも関係なく降ってくるものだ。降ってきた人は、それぞれの特性に根ざした種をまく人になる。

自分にできる善いことをちょっとづつでも継続する。善いこととは何かを考え続ける。その原点に救済を置くというのが現実的な応答なのだと思う。

才能のある人の責任は重い。

例えば、現実社会では、武力は無しにはできない。実力行使力が十分でなければ、力に頼る人に蹂躙されてしまう。善意、悪意は関係ない。数年前、地理空間情報に関連して軍事技術に触れることがあった。当時は、C3I(command, control, communications and intelligence)という言葉が使われていたが、ちょっと気になって調べたら今ではC6ISR(Command, Control, Communications, Computers, Combat Systems, Cyber, Intelligence, Surveillance and Reconnaissance)という言葉が使われていた。細かく挙げただけと見ることもできるが、サイバー、監視、偵察とコンピュータ、戦闘システムが明記されている。事象を高い情報品質で監視できるようになり、異常を検知したらそれを調べる能力を持ち、それが止めなければいけない動きであれば対処できるシステムを保つ必要があるという考えだろう。イエスの生きていた時代には、今のような情報システムは存在しなかった。現代であれば、C6ISRの相対優位性が権力の源泉となる。誰かの手に落ちれば、無理でも従わざるを得ない。相手が地球環境問題でも構造は変わらない。起きている事象を利権のバイアスを受けずに正確に把握し、是正方策を立案し、何らかの形で行動を起こさなければいけない。才能のある人は権力の罠(情報独占の誘惑)に落ちることなく、社会システムを構築していく責任がある。ナショナリズムではなくグローバルで進めなければならなくなっている現実から目をそらしてはいけない。

競争社会で生き残ることは容易なことではないが、それだけでは足りない。単一障害点(独裁、独占)を作らない社会システムを目指すべきだろう。あきらめちゃだめだ。一人ひとりの力は小さくても、それぞれの多様な善の追求で未来をもっと良くすることはできるだろう。自分の地位を守るために嘘をついてはいけない。それが、最後の壁となる「茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である」と考えて良いと思う。要注意である。抗うのは難しいが、乗り越えられないはずがない。

※冒頭の画像はWikimediaから引用したミレーの種をまく人