多数決の恐ろしさ

Defend Trump and ‘Hammer’ Ramaswamy: DeSantis Allies Reveal Debate Strategyで次期大統領選挙の予備選でのスーパーPAC(特別政治行動委員会)の活動が報じられている。建前上は候補者から独立しているが、他候補へのネガティブキャンペーンに多額の資金が用いられ、対立点を煽って得票につなげる役割を担っている。

広告全盛の時代に、名前を耳にする頻度が低ければ投票してもらえない。Google検索でひっかからなければ、その企業やビジネスは存在していないのと変わらない。悪名でも無名よりはましという変な状態が起きている。日本で言えば、「悪夢のような民主党」が象徴的なネガティブキャンペーンとなる。共産党とロシア政権や中国政権に結びつけて喧伝するのも同じだ。自民党と旧統一教会のつながりを強調するのもネガティブキャンペーンと言えないことはないが、事実による裏付けが違う。安倍晋三ともりかけさくら問題も類似と考えて良い。

選挙を競争と捉えて対立を煽れば、勝てば官軍思考に堕ちていく。

どうやって勝ち馬に乗るかという話になっていくと、ありたい姿を議論するより、誰に投票するかに注目が集まってしまう。荒っぽいことを言わないと目立てない。

私はこういった動きは民主主義の破壊にほかならないと思っている。意見の違いがあるのは当たり前で、それを弾圧するのではなく多くの人が許容可能な道を探していくことで、社会を良くしていく方が望ましい。多数決で勝てばルールを変えて良いという考え方は安定性を損なう。今、アメリカやイギリスで起きているのはそういう危うい政治だろう。同時に、米英の民主主義は薄っぺらではなく、意思表明の自由はかなり丁寧に守られている。そういう意味では、無理やり一色に染めようとしてしまう権威主義とは一線を画している。ただ、広告ビジネスが強くなると、自由な意思表明がフラットに届かなくなる。中絶の是非というような単純化は現実的ではなく、置かれている状況によって適切と思われる判断は本来割れている方が自然だ。単純化して対立を煽れば注目が集まり、YesかNoかという選択が求められるようになる。そんな単純な選択で社会を良くすることなどできはしない。

スーパーPACは制度として見直されるべきだろう。最後は多数決で決めなければいけないこともあるだろうが、価値観を競争で是非を決めてはいけない。あくまで共に生きていく道を探らなければ未来が明るくなることはない。残念だが、日本の政治も同じ隘路に陥っているように思う。同じ政策であっても自民党が起案しなければだめだというような議員の存在を許してはいけない。ありたい社会の姿は容易に一致しない。敗戦後などのりスタートの時期は、とにかく生きていける社会にしなければという目標は一致するが、そういう時期は長くは続かない。年長者が苦労を乗り切って今があると思うようになると慢心が価値観の押しつけを生み、社会を蝕んでいく。多分、唯一の解は人権から考えて多様性を許容しなければいけないルールを確立することだろう。そう考えない人はいなくならないから、行ったり来たりは繰り返さざるを得ないが、それでも私には他の道は考えられない。

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