今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第21主日 (2023/8/27 マタイ16章13-20節)」。マルコ伝8章、ルカ伝9章に並行箇所がある。
福音朗読 マタイ16・13-20
13イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。14弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」15イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」16シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。17すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。18わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。19わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」20それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
福音のヒント(4)にあるように、並行箇所には「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」の記述はない。新生活シリーズを書くようになって、しばらくしてからは、まず聖書箇所を読み、並行箇所を調べ、Biblehubを見て、英語の見出しや原文対比の部分に目を通してから福音のヒントの本文を読むようになった。箇所は依存するとしても、まず自分で並行箇所を読み比べるようになると、編者の視点の違いや意図を考えないわけにはいかなくなる。当然、神学を学ぶ者は誰であっても、なぜ聖書の記述がそうなっているのかを考えたことは少なくないはずだ。共観福音書はイエス伝だから、その時代を生きていた複数の人がどう見ているのかを浮き立たせている。旧約聖書も歴史的記述は重複して掲載されている。十戒も出エジプト記と申命記の記述には差異がある。矛盾もあるし、書かれなかったこともあるに違いない。私は、このペトロの箇所に接したのは記憶にないほど子供の頃だったから、ただ単純にイエスは救世主で神の子なのかと憶えたのだと思う。一度、そう思ってしまうと視点が固定されてしまうので見える世界が偏る。明治神宮は計画された森で政府が買い上げた土地を造成したものだが、足を踏み入れれば結界感があり、何か神聖なものが存在している空気を感じる。しかし、それは作られたもので、もともと特別な場所ではない。聖書も文章にまとめられたものであって、その登場人物は過度に神格化されているケースが無いわけがない。ペトロに関しても、相当盛られているのではないかと感じさせられる。預言者たちもそうだ。エリヤ、エレミヤに関しては、イエスの生きていた時代の人ではないから、庶民からすれば昔の偉い人でしかない。
この箇所は全ての共観福音書に出てくるので、何らかの宣言があった可能性は高い。ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と発言した事実は恐らくあり、イエスがそれを認めたのも恐らく事実だろう。イエスは喜んだだろうか。私は喜んだだろうと思っている。自分の信仰を口で告白するのはそれ以降の人生を左右する。信仰告白があっても心変わりもある。ペトロはイエスが十字架を背負う時には逃げたし、昔も今も過去に信仰告白があっても去ってしまう人もいる。一度去ってしまっても戻ってくる人もいる。ただ、誰かが信仰告白を口にしたという事実があれば、それを自分で否定することはできない。天の国の鍵の天の国はᾅδουという言葉で冥界とか地獄という訳もありえる。鍵はπύλαι(複数形)で、門という訳が一般的な言葉らしい。ペトロを起点とする教会に属するものからすると、18節のイエスの言葉は正統性の保証のようなものだから具合が良いが、他の共観福音書に記載がないことからすると当時のイエスにその発言はなかった可能性がある。私は、初代教会の一貫性の確保のために唯一のリーダーを置くことが不可避だったことからペトロを立てることとし、それを正当化する上で、ペトロを現実以上に聖人化したのではないかと思っている。ペトロも一人の人間であり、役割を担ったに過ぎない。教会のリーダーシップはやがてヤコブに移っていった。
この箇所で「イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた」とあるのは気になる。自分がメシアであることを知っているが、この時は人間イエスであるから復活のイエスの時まではまだメシアとして完成していないという意味にも取れる。
福音のヒント(5)では「この神の国には、イエスと共にもうすでに始まっているという面と、まだ完全には実現していないという面があります」と「教会が本当に神の国の門を開き、人々をそこに招いているかどうかが問われています」とある。今生きているこの時代とこの場所で何をやるかが問われていると思う。
改めて天の国の鍵とは何かを考えると、それは今生きているこの時代とこの場所で自由と人権の確立する行動への勇気ではないかと思うのである。専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努め続ける勇気と言い換えても良い。権力への反抗は本質的に避けられないものだと思う。
※画像はWikimediaから引用したナントのサン・ピエール・サン・ポール大聖堂の銘板(CC BY-SA 3.0)で、ペトロの上に教会をたてるとある。