新生活154週目 - 「イエス、死と復活を予告する」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第22主日 (2023/9/3 マタイ16章21-27節)」。マルコ伝8章、ルカ伝9章に並行箇所がある。BibleHubでは箇所全体として並行箇所と位置づけていないのが印象的だ。

福音朗読 マタイ16・21-27

 〔そのとき、〕21イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。22すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」23イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」24それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。25自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。26人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。27人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」

イエスは、いつ自分の死と復活という流れを知ったのだろうか。ずっと前から知っていたのか、この直前に知ったのかはわからないし、ゲッセマネの祈りを考えると、確定した計画として納得していたとは思えない。しかし、ペトロを叱ることで自分の使命を再認識できたのではないかと思う。イエスの中にも神のことを思わず、自分のことを思う気持ちは残っていたのではないかと思うのだ。自分を捨てなければ世界が変わらないことを確信した瞬間だったのかも知れない。

福音のヒント(3)にあるようにペトロはイエスの身を案じたのだと思う。とても素直な感じがする。人間イエスにはその素直さは刺さったのではないかというのが私の解釈だ。自覚が深まったことによって、24節以降の発言が自然と出てきたと解釈することもできる。異端的解釈かもしれないが、そう感じたので書いておくことにした。

真実を求めよという究極のメッセージと言えるだろう。

※画像はWikimediaから引用したJames Tissot: Get Thee Behind Me, Satan。ペトロは糾弾されて困惑しただろうが、多分良い働きをしたのだと思う。