新生活156週目 - 『「仲間を赦さない家来」のたとえ』

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第24主日 (2023/9/17 マタイ18章21-35節)」。21節の並行箇所と思われる箇所にルカ伝17章4節があるが、見出しは異なる。WikipediaにはParable of the Unforgiving Servantという記事がある。日本語版はない。

福音朗読 マタイ18・21-35

 21そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。22イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。23そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。 24決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。25しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。 26家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。27その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。28ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。29仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。30しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。31仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。32そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。33わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』34そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。35あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

赦すというのはどういうことだろうか、存在しない罪を負わされたら、戦わなければ不義が正義となってしまう。世界中で見る独裁者、権力者の腐敗を受容すれば良いという風に読むことはできない。兄弟はそういった大きな話ではなく身近な話のことを示すのだろう。正されるべきものが正されなければ社会は腐る。正されなければならないとしても兄弟を罰するなと取ることはできる。罪は罪だが、罪と罰は連携させなければいけないわけではないというのがイエスの教えだろう。律法は罪と罰を結びつけることで社会システムを維持している。イエスは律法は滅びることがないと言うが、罰則の規定に従わないし、律法で罪と定められる事項であっても、逸脱することを恐れない。人間イエスが国家転覆罪に相当するという見方は賛否は分かれるだろう。彼は、洗礼者ヨハネ同様、時の権力に批判的だったし、時の権力者に反抗的な人が集まる場所を与えた事実はあるだろう。一方で、革命方向に誘導したかと言えば、そうとは思い難い。宮浄めのように暴力的に振る舞ったことはあるが、それは時の権力そのものを打倒しようとした行為ではない。ただ、その行動は時の権力者の収入源に打撃を与えるものだっただろう。

追放は罰だ。赦すという言葉を罰を与えるなと解釈すれば、追放は避けなければいけない。2020年6月7日に金井美彦は2020年3月の砧教会の総会決議に反して会堂礼拝を再開した。その時私が当時の役員会に求めたのは非難決議である。牧師が必要があると考えるなら、総会決議に反して会堂礼拝を再開しても構わないと考えていたが、総会決議に反すればそれは罪である。彼は、罪の存在を認めた上で、その必要性を説明すれば良かったのだ。総会決議違反を進言した佐分利正彦はその罪から逃れるために会堂礼拝の再開は無かったということに役員会メンバーを扇動することに成功し、事実は隠蔽されたまま書面総会で2020年3月の総会決議の取消しを行った。

その後3年以上に渡って、私は不義の是正に向けて戦っている。今は、2名の追放を主張しているが、本当に追放されることになったら私はイエスの教えに従っていないことになる。しかし、大声を上げなければ時とともに事実が無かったことにされてしまう。言ってみれば歴史修正である。もっとうまくやれれば良いとは思うが、ほかの方法が見つからなければ、自分が考えられる方法で戦い続けるしか無い。風向きが変われば、共に歩みを進める日が来る日を信じるしか無いのが現在の状況である。

さて、福音のヒント(1)に「21-22節と23節以下は本来別の伝承だったのでしょう」とある。ルカ伝との比較をしてみて、私はその考え方に賛同したい。

23節以下は借金の話で、そのまま読んでも良い話に読める。二重基準は許されないという話と取ることもできるだろう。激しく糾弾するものは、激しく糾弾されて当然だ、あるいは不正な利益を得たものは、利益配分に関わらせてはいけないという教えと取ることもできる。真っ当な感じがする。

主の祈りに「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」という言葉がある。かつて金井牧師はこの罪は負債と解釈するほうが良い訳なのではないかと言ったことを憶えている。一般的な解釈とは言えないが、私はかなり面白いと思ったので記憶に残っている。「我らに対する負債の返済を拒むものを我らは債権放棄に応じますので、我らの負債も帳消しにして下さい。」という祈りとなる。随分印象は変わるが、現実問題として私達は罪を犯さずに生きていくことはできないから、神はその罪に対して罰し放題の状況にある。金を払って許してもらえると考えたとしてもとても払い切れるものではない。常に存在の危機に面しているのである。福音のヒント(2)で「実は「罪」という借金を返済することはできません。また、罪を犯したという事実は永遠に消えることがないのです」は、この主の祈りの金井解釈と通底するものがあると思う。負債は過去の罪である。その罪は消えないが、債権者は債権を放棄する権利がある。現実問題として、罪があることを認めない相手は、同じ罪を繰り返し犯すリスクが大きい。罪を認めないものを赦すことはできないのである。そういう意味では福音のヒント(4)の「ゆるしてはいけないことだってあるはずだ」は、当然のことだけれどやはり「ゆるしてはいけないこと」は無いのだと私は思う。ただ、それは悔い改めを伴うものだと考えている。同じ罪を繰り返し犯すリスクを下げることができればそれで良いと思う。

福音のヒント(5)の主の祈りへの言及は私も繰り返し聞いてきたことだ。ただ、祈る主体の私達の負債は神への負債として祈っているが、現実には、他の人間や社会に対する罪を犯している。地球環境問題なら全ての人間が加害者で罪を負っている。罪を犯すことなく生きていくことはできない。現実的には無視できる罪は無視しなければ社会は回らない。一方で、無視できる罪も数が集まれば無視できなくなる。共に生きるということは無視できる罪であっても罪は罪として認識して、改善に向けて力をあわせていくということだろう。そのサイクルがよく回る社会は神の国が来ている社会だ。恒久的な出口(天国)はなく、暫定的な出口とそれに向けた歩みしか存在し得ない。「誰一人取り残さない」というSDGsの理念はその流れの一つだろう。

冒頭で引用したWikipediaの記事を機械翻訳すると、最後の部分に「聖ヤコブも「憐れみを示さなかった者には、容赦のない裁きが下されるからです」(ヤコブ2:13)と書いています」とある。キリスト者は赦す側にいるが、形式的に赦してもしょうがないという意味だろう。今の私には教会あるいは教会のリーダーの傲慢さを感じる主張である。間違っていると言っているわけではないが、上から目線だ。教会には意外と愛が足りないと感じる。

蛇足となるが、ジャニー喜多川氏の性加害問題では明らかに彼に罪がある。被害者には加害者を罰する権利があるというのが救済の根拠となり、犯した罪を金額化してその支払をもって罰の請求権を放棄するということになる。実際には、喜多川氏は死亡していて、彼自身を罰することはできないから、彼の築き上げた財産を使おうということになるが、金の話になれば様々な問題が発生するだろうし、受け取れば受け取ったで非難を受ける被害者も出るだろう。私は、救済は望ましいと思うが、再び類似の被害者を出さないためにしなければいけないことにもっと注意が払われるべきだと思う。教会や学校でも性被害は起きている。恐らく、そういった問題を解決するためにはプライバシー権の一部を放棄していかなければならないだろう。EUではこの問題にかなり正面から取り組んでいるが、プライバシーを守ることと安全な社会を守ることの両立は容易ではない。隠し事の許容境界をどう設定すべきかは難しい。隠し事を許容すると邪悪な権力者はそれを悪用する。人の弱みを握って望まない行為をさせるのは罪である。でも、魔が差すこともあり、加害者にもその後の人生がある。恐らく性被害をゼロにすることはできない。早く罪が明らかになって、加害者が負いきれなくなるほど罪を重ねる前に問題が解決できる社会を目指すのが良いだろう。

福音は希望の種だ。希望の種をたくさんもらって良いことのために力を出せたとしても、同じ人に悪魔も罪の種、慢心の種を蒔く。善人と思われるような人も日々慢心と戦う必要がある。転落の危機は誰に対してもなくなることはない。希望がなければ慢心に抗うことは難しい。

※冒頭の画像はWikipediaの記事に出ていた「無慈悲なしもべのたとえの描写。メルボルンにあるスコットランド教会のステンドグラス」をWikimedia経由で引用した。王が罰するというのは、神が赦さないということを示すが、恐らく神は罰しない。イエスは、人間が自らこういう悲惨を起こすことのないように、賢く社会を成熟させなさいと言ったのではないだろうか。