新生活158週目 - 『「二人の息子」のたとえ』

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第26主日(2023/10/1 マタイ21章28-32節)」。並行箇所はない。

福音朗読 マタイ21・28-32

 〔そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。〕28「あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。29兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。30弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。31この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。32なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

パッと見に割りとわかりやすい話だと思う。Wikipediaには、日本語版のふたりの息子のたとえがある。その記事では「このたとえ話の中心主題は、自分の罪を自覚して今までの生活を変えること、考え方を変えることである。そのために必要なものは、心の柔軟性と心の謙虚さであろう。」と書いてある。私は、むしろ32節の記載に関心がある。祭司長や民の長老たちは、律法分野で有識者である。正しい行いを理解していて、それを実行もしていただろう。聖書を読んでいると祭司長や長老は極悪人に思えてくるが、ちゃんとしていなければ昇格できないから真面目な人が多かったはずだ。ただ、権力構造の内側にいると、権力構造を守る方向に向かってしまう罠がある。ヨハネはアウトサイダーで、彼らから見ると正当性はない。自分の地位に溺れて聞くべき声を聞き漏らしてしまう。逆に民衆にはしがらみがなく自由だ。だから、ヨハネの声が届き、権威者の形式美の醜さを見抜く。

今日の箇所の前、23節で「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」という問いがある。典型的なインサイダー視点の発言で、自分たちは正当性のある指導者だという自負が感じられる。洗礼者ヨハネやイエスはアウトサイダーだから、その後ろに神がいることが認められない。もちろん、まがいものはいくらでも出てくるから、権威側は民衆が騙されないように吟味する必要がある。そのような活動で守られたケースはあるだろう。

イエスは自分を良い羊飼いだと言う。羊を見て羊に資する判断をする。

権力者は個ではなく群れに注目する。群れを強くすることは権力の拡大に繋がり、自分のためになる。必要であれば容易に個を見殺しにする。

権力者の施策と個の満足が一致するタイミングはある。成長期はそういう状況になりやすい。貧乏を脱するために力を合わせている時は、概ね苦労があっても頑張れるが、成長が止まれば権力者は敵を必要とするようになり、力を合わせられないようになれば内部を弾圧することで従わせようとしてしまう。そうなれば遅かれ早かれやがて破綻に至る。

当時のイスラエルは独立を失っていて、勢いはない。権力者も内向きになっているように見える。民衆は、容易に気づく。ヨハネやイエスに期待する人が出てきても不思議ではない。

ぶどう園に行って働きなさいというのは、事業への参加の要請だ。神が良い世界を作るための仕事に力をあわせよという話だ。ヨハネは、神の国のために力をあわせて働くということはどういうことかという解釈を説き、徴税人や娼婦たちは信じて参加した。権力者の一部も参加した。

イエスの教えの興味深いところは直接神と人とが関わりを持つところにある。本質的には、仲介者の存在を否定している。だから、祭司長や長老は、もし神と人との間に立つものになってしまったら許されない。特に、それが自分の地位を守るための行動になっていれば激しく糾弾する。そして、個の自立を称賛する。特に、既存秩序によって排除され苦悩している人に等しく人権があることを説く。

「あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」という言葉は、権力者グループにも響いている。できることは限られるとしてもイエスの弾圧に異を唱えた人はいたとされているし、アリマタヤのヨセフは権力側の人だっただろう。組織の維持より善い行いを優先するという考えを良しとする考え方だ。

そういう考え方は、キリスト教とは無関係にある。

ただ、善い行いとはどういうことかはわからないし、判断を個人に任せると解釈は一致しない。延々と2000年追求されているが、大原則さえ定まらない。一つの考え方は、全ての人に基本的な人権があり、人権侵害が起きないようにする行いが善い行いというものだ。ただ、優先されたり劣後されるケースがあっても良いという考え方は消えない。特に超えられない高い壁は人への依存だろう。カトリックだとローマ教皇を頂点とするピラミッド構造となっているので差別の構造が生まれてしまいやすい。一方、構造化された組織は大きな力を発揮できる可能性が高い。プロテスタント教会だと、教会総会で方針を決めることになっている。それでも牧師に対する依存から脱することは難しい。それぞれが、得られている事実に基づいて善い行いをすれば良く、意見の相違があった場合は、牧師が決めるのではなく開示可能な事実を明らかにした上で教会総会で紛争を解決しなければいけない。その原則が崩れると教会役員会はこの場所の祭司長や長老と同じ権力団体に堕し、人権侵害の主体になってしまう。

「後で考え直して彼を信じようとしなかった」は「彼が語っていた正しいことが何かを考え直して自分の行動を変えるべきだった」と私は解釈している。少なくないユダヤ人はイエスの死後に自分の行動を変えた。代表格のパウロは人間イエスにあまり関心を示していない。イエスの教えには自らの解釈に基づいて従おうとした。自己保身の罠に堕ちなかったように見えるところがすごい。

改めてこの箇所を読むと、一人ひとりが自分の頭でよく考えて、よく事実を見て、善い行いを進める上で、過去の経緯から自由にならなければいけないと思わされる。それがとても難しいことをイエスは知っていた。同時に、それを克服しようと努力する者を決して見捨てないと宣言している。キリスト教を信じるということは、善い行いを進めようと努力している限り決して見捨てられることはないと信じることでもある。

※WikimediaのAndrei Mironov: Parable of the Two Sonsから引用させていただいたもの。作者はロシアの1975年生まれの人。32節に注目すれば、むしろ「権威についての問答」から画像を探した方が良い気もするが、3人の絵を選んだ。作者は大量の宗教画を描いているが、スターリンや軍人の肖像画も描いている。