新生活168週目 - 「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「待降節第2主日 (2023/12/10 マルコ1章1-8節)」。マタイ伝3章、ルカ伝3章に並行箇所がある。

福音朗読 マルコ1・1-8

1神の子イエス・キリストの福音の初め。
 2預言者イザヤの書にこう書いてある。
 「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
 あなたの道を準備させよう。
 3荒れ野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、
 その道筋をまっすぐにせよ。』」
そのとおり、4洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。5ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。6ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。7彼はこう宣べ伝えた。
「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。8わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

 マルコ伝には生誕物語はなく洗礼者ヨハネによって洗礼を受け、その時に霊が降りた所から始まる。

私自身が告白した日本基督教団の信仰告白は以下の通りである。

我らは信じかつ告白す。
旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠よるべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言ことばにして、信仰と生活との誤りなき規範なり。

 主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ。御子みこは我ら罪人つみびとの救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖となりたまへり。
 神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ。この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ。

 教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集ひなり。教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝へ、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む。

 我らはかく信じ、代々の聖徒と共に、使徒信条を告白す。
 我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子ご、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。アーメン。

マルコ伝をそのまま受け入れると、イエスの活動の起点は霊が降った所から始まるので、使徒信条部分の「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ」は意味がないように感じられる。オリジナルのマルコ伝は16:8で終わっていたと考えられていて、復活の記述はあるが生身の体で誰かに会った記述はない。

洗礼者ヨハネがイエスのことを「その方」と明言した記録は見当たらない。私は、おそらく洗礼者ヨハネは弟子イエスに期待をかけていたとは思うが「その方」か否かの判定の権限は自分には無いと考えていたのではないかと思っている。必ず来ることには疑いはなかったようだが、そこまでだったのではないかと思うのである。

キリスト教の信仰は、唯一神を信じ、洗礼者ヨハネの唯一神からの預言を信じ、イエスが「その方」であることを信じることが原点だと思っている。

現実には、イエスが「その方」で復活したことを事実として認めるにはマルコ伝だけの記述では弱かったのだろうと思う。もう一つ信じる必要があったのは、復活のイエスがパウロを改心させて伝道に貢献したことを認めることだろう。洗礼者ヨハネはイエスを「その方」とは明言しなかったが、パウロはイエスが「その方」で十字架刑後のイエスに直接影響を受けたと告白している。そして彼はペトロを中心とする教会の正統性を認めつつも疑いを抱いていたようにも見える。直接復活のイエスに繋がらなければならないと考えていたのではないかと思う。彼は自分に起こったことを信じていて、同時に自分が単なる人間であることを自覚していたので、いつかは分からないが誰にでも同じようなことが起きると信じていたのだと思う。彼は迫害者だったのだから、どんな行動をしているかとイエスが誰に直接働くかに決定的な因果関係はないと考えていただろう。

とは言え、信じて伝道するには教会という器は必要だったし、人が集まれば必ず解釈に差が生まれ、対立が起きる。対立が深刻化すれば組織は崩壊してしまう。どうしてもイエスの神性は証明しなければならなくなり、様々な曲折を経て、新約聖書が聖典となり信仰告白が明文化された。教会に属するということは、この信仰告白を正としなければならない。

私は、日本基督教団の信仰告白を自分が告白することを非としない。それが教会の合意であるからだ。そして、教会が真の信仰共同体であろうとしていることを信頼している。つまり使徒信条部分の「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子ご、我らの主、イエス・キリストを信ず」には全く疑いを抱かない状態で、以外の部分な教会が信仰共同体であることを維持するために認めなければいけないことであるなら分からない部分があってもそれを認めることをためらわないということだ。

一方で、例えば「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ」っておかしくないかと今問われれば、おかしいって感じるのは変じゃないと思うと答える。教会がそういう基本姿勢であれば私もその基本姿勢に従うが、生誕物語がどうだったかは検証はできていないと思う。一方で、新約聖書が編纂され、公会議で一定の合意が得られ、パウロの史的な存在も相当レベルで確からしいので「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子ご、我らの主、イエス・キリストを信ず」は私の強い確信となっている。

自分を洗礼者ヨハネやパウロと比較しても意味がないが、彼らに習おうと思っているのは、自分を一人の人間として捉え、仮に使命や預言が与えられていてもそれは自分を特別なものとするのとは違うという視点をもっている点である。だから、一人の人間としてよく考えた上で「道を真っ直ぐにせよ」と言い続けようと思っている。仮に自分の主張が誤ったものである可能性が高かったとしても、その発言が困難を招くとしても、重要性に気がついたら「道を真っ直ぐにせよ」と言わない訳にはいかない。それが信仰であり、御心に叶えば必ず守られると信じている。守られると信じていても、守られるということが本質的にどういうことかはわからない。願わくは、命と生活が守られるようであってほしい。

イエスが来た後でも、「道を真っ直ぐにせよ」というメッセージは消えない。

※画像はブルックリン美術館のSaint John the Baptist and the Pharisees (Saint Jean-Baptiste et les pharisiens)
James Tissot。マタイ伝3:7の「ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。…」に関わる絵画だろう。マルコ伝のこの箇所にはないが、洗礼が免罪を意味するものではないことを表している。イエスは洗礼を受けて教会員になれば救われるということだとは言っていない。洗礼は信仰告白の表明と洗礼者による信仰告白事実の承認でしかない。そこからふさわしい実を結ぶような信仰生活に入れなければ意味はない。信仰告白を決して軽視しないが、それはゴールではない。