新生活170週目 - 「イエスの誕生が予告される」

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 今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「待降節第4主日 (2023/12/24 ルカ1章26-38節)」。直接的な並行箇所はない。

福音朗読 ルカ1・26-38

 26〔そのとき、〕天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。27ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。28天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」29マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。30すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。31あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。32その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。33彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」34マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」35天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。36あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。37神にできないことは何一つない。」38マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

24日は、日本のプロテスタント教会ではクリスマス礼拝を守る。私は、今年も所属すべき教会を失った状態が続いている。

今日の箇所にガブリエルが出てくるが、この天使はダニエル書とルカ伝に出てくる存在で、他の福音書にも他の文書にも出てこない。改めて調べてみると、この箇所の史実は無いのではないかと思えてくる。感動的な箇所でインパクトは大きいが、こんなにインパクトの大きい箇所に並行箇所がないのは不思議だ。マタイ伝では天使はヨセフの夢に働きかけている。福音書の読者は公生涯前のイエスはどうだったのだろうかと興味を持つから伝承を探って生誕物語は書かれたのだろうと思う。どこまで事実にたどり着けたかはわからないが、この箇所は正典として生き残っている。

人間イエスを調べれば母はどのような人物か、なぜ彼女は選ばれたのかは話題になる。血のつながりに何かを見つけようとする。イエスの弟とされるヤコブが教会の組織化とともに教会長に就いているのも血縁と無関係とは思えない。一方で、イエスは血のつながりを重視していたとは思えない。

「神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる」もしっくりこない。ヤコブの家は、アブラハム、イサク、ヤコブの系譜ということだろうから、内容的にはユダヤ教の統治者ということになる。福音書が書かれていた時代には、まだユダヤ教の分派の色彩が強かったのかも知れないが、活動は伝統的なカナンの地ではなくローマのスケールに変わっている。今から振り返ってみれば、キリスト教のスケール感にあわない。

教会組織として考えると教義がブレるのは困るから、いろいろなシーンに対する正統な解釈を決めることを避けるわけにはいかない。カトリックは、マリアの神聖性を組織的に正統な解釈とすることを決め、最近になって無原罪の御宿りを宣言している。意見が割れることに裁定を下す。プロテスタント教会と一つに括るのは無理があるが、怪しげな解釈の是非は裁定しないのが原則となる。

いずれにしても、人間イエスの誕生の事実はあったわけで、母マリアは存在する。その存在がなければ公生涯も存在しない。その教えには様々な解釈が与えられ続けている。イエスの誕生日が12月25日であった可能性も低い。本当はいつだって良いのだ。天使による受胎告知があったか否かも大きな意味は持たない。処女降誕の事実も本質的ではない。仮に不倫の子であったとしても問題だとは思わない。血筋や因果律に頼るのはむしろイエスの教えから遠くなると思う。きれいな物語を望みたくなる気持ちは十分に理解できるし、それを正当化したい集団が生まれ、それによってInとOutを区別したい人がいても不思議だとは思えない。解釈を信じたい人がいて実害がなければ好きにすればよいだろう。

ただ、イエスの存在は、それ以前と以降で多くの人の価値観を変えた。置かれた環境での絶望を希望に変えた。それは現実だ。その最初を喜ばしい日として祝い、さらにその前の妊娠を祝いたいという思いは事実がどうであったかに関わらず良い思いだとは思う。

もし、全てが事実で「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」とマリアが言ったのであればそれはそれですごいことだと思う。福音のヒントにあるように「このマリアの受諾から救いの時代が始まっていると言えます」という解釈もあるだろう。ただ私はどうも救いの因果を人に求めるのに抵抗感がある。

本来持たせてはいけない力を権力者に与えてしまうと戦争などによって人命が失われるリスクは高まるといった因果律は厳然として存在する。やることをやらなければ地球温暖化を止めることができないのも因果律は働くだろう。しかし、人の救いが因果律に束縛されることはないだろう。その上で、報いが保証されていなくても、愛に生きよという教えに従うのは、それこそが既に救いだ。一人ひとりは無力に見えても、様々な問題を解決する力になる。一人の個として現実に向かい合うことが求められているのだと思う。

仮に受胎告知のようなとんでもないメッセージが降ってきたら、この箇所のマリアのように受諾したい。

※画像はWikimedia Commonsから引用した受胎告知の絵。天使には性別はなく翼の有無には諸説あるらしい。