新生活173週目 - 「最初の弟子たち」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第2主日 (2024/1/14 ヨハネ1章35-42節)」。並行箇所はない。新生活シリーズも3年を超えたので、過去のB年の記事新生活17週目 - 「最初の弟子たち」がある。福音のヒントの方の記事は、今回も3年前も表題をのぞけば恐らく全く同じものだ。

福音朗読 ヨハネ1・35-42

 35〔そのとき、〕ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。36そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。37二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。38イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、39イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。40ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。41彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。42そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。

3年前の自分の記事を読み直すと、自画自賛になってしまうが興味深かった。些末なことだが、当時リンクが張ってある対照情報は見当たらなくなっている。

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時は流れるのである。今は、Biblehubを利用して、並行箇所を確認している。

そこではThe next day John was there again with two of his disciples. とある。新共同訳では「ヨハネは二人の弟子と一緒にいた」とあるが、with two of his disciplesのhisは誰を指すのだろうか。素直に読めば、John'sだろう。ヨハネは洗礼者ヨハネの弟子だから、孫弟子がいたということだろうか。日本語だと、イエスの弟子と読める。英語でもイエスの弟子と読めないとは言えないだろう。弟子(μαθητῶν)は学徒という意味もあるので、洗礼者ヨハネに従う学徒という意味に取れなくもない。BiblehubにはEllicott's Commentary for English ReadersとPulpit Commentaryも含まれていて、それを見ていると当然のようにイエスの弟子と解釈されている。言葉は難しい。新共同訳では〔そのとき、〕の箇所には「その翌日、また、」と書かれている。againに英語で対応する部分で、初めてあったのではないことがわかる。

3年前私は「ちょっと考えれば、いきなり(将来弟子となる)ヨハネが『見よ、神の小羊だ』と言い、二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従ったというようなことが起きるわけがない。」と書いている。改めて読むといきなりではなくて「そのときも」ヨハネはいたということになる。何度か話を聞いて、イエスを吟味して、この人は本物だと感じていったと読むことができる。そう考えれば、あり得ない話ではない。3年前の記事は記事としてそのままにしておくが、ヨハネ伝は輝かしい結果から書く傾向があるので、その前の葛藤が捨象されてしまう。「見よ、神の小羊だ」と言ったのが事実だったとしたら、その前に何らかの出来事があったのだろう。それでも、並行箇所がないのは気になる。このヨハネがヨハネ伝の著者と考えれば、自分の記憶に基づいた文になるので、他の福音書に出てこなくてもおかしくはない。ただ、ヨハネ伝が作られた時期には弟子ヨハネが存命だったとは考えられないのでやはり怪しい。

 現代においても、教会には実体としてのイエスはいない。本来のリーダーが不在の教会では、教義が重要となり、解釈の権威付けは不可避となる。洗礼者ヨハネが逮捕された後の一番弟子争いがあって、その中でイエスを跡目としようと考えた人はいたのだろうと思う。その後のことを考えると、当初は洗礼者ヨハネの後継者としてイエスを見たが、実は洗礼者ヨハネの後継者で収まるような人物ではなく、洗礼者ヨハネが予言したメシアであると信じるに至ったという物語の出だしの箇所と読むこともできる。情報が十分になければ、仲介者に依存するしか無い。そこで、人への依存が発生してしまう。権威者も一人の人間だから解釈の誤りは避けられないし、私欲から自由になれる人もいない。できるのは思いを尽くすことぐらいだ。

全てのクリスチャンは、それぞれが思いを尽くして真理に生きることが求められている。自由には、自立が必要となる。解釈の違いがあるのは事実として受け入れるしかない。それはそれとして、自分の道を切り開いていくしか無い。「見よ、神の小羊だ」という信仰告白は、その告白者の人となりや行動により周囲の人に影響を与えていく。私の信仰告白は、周囲の人から見ると彼の信仰告白であり、私の生き様と併せて評価、解釈される。人を躓かせる原因にもなるから恐ろしいことだ。しかし、だからといって黙していれば福音を伝えることはできない。素直に思いを尽くして真理に生きようとする以外の道は無いのではないかと思う。

ヨハネ伝に従えば、ヨハネの信仰告白は現在の教会の起点となることになる。ヨハネも恐らく人を躓かせる原因にもなっただろうが、それを越えて福音は広がっていった。信仰告白が起点であっても、その後に霊が働くと考えるのが適切だろう。

※画像は、WikimediaのJames Tissot: The Calling of Saint Peter and Saint Andrew