人によって受け取り方に差はあると思うが「安全保障」という言葉には何か剣呑な感じがするのは恐らく私だけではないだろう。一言で言えば、防衛と直結する。
セキュリティという言葉の方には、警備保障やボディガードあるいはコンピュータセキュリティを想起する。一言で言えば、防犯と直結する。
防衛と防犯は隣接するが、防衛は一般人には手を出せない分野で、防犯は専門家を頼りにしなければいけない局面は多いものの自力でやる分野であろう。
Wikipediaの国家安全保障には、「安全保障とは、国家・国民にとっての生存や独立、財産などかけがえのない何らかの価値を脅威に晒されない様に何らかの手段によって守ることを主に指すが、その概念は非常に多様である」とある。「国家・国民にとって」とあるが、欧米民主主義国のSecurityは個人や組織の存続や独立、財産などかけがえのない何らかの価値を脅威に晒されない様に何らかの手段によって守ることという意味合いが原則にあると思う。個人や組織を守るために政府・行政がやらなければいけないことを主権者が求めるのが、Nationa Securityであくまで人民を守るためのものだ。権威主義国では、人民より権力者のSecurityが優先される。人民が犠牲になっても権力が守られなければならないという話になる。国のために命を捧げることを強制する軍はその象徴だ。
「何らかの価値を脅威に晒されない様に何らかの手段によって守ること」の基本はリスクマネジメントだ。
地震リスク、感染症リスク、交通事故、詐欺被害、他国からの侵略、為政者の圧政、原発事故、化学被害、テロや暴力団など、ちょっと考えただけでも脅威は山ほどある。飢餓は食料安全保障分野で、今から90年ほど前にも悲惨は起きている(タリン・ブラックナイト映画祭でカザフスタンの映画が国際映画批評家連盟賞を受賞した参照)。人民の生存権を守ることは第一優先とするべきだと私は考えているが、指揮命令系統の崩壊は守ることの可能な生存権を毀損する可能性がるので、一定のレベルで優先順位を設けない訳にはいかない。正解はなく、権力者絶対優先から無政府指向まで軸として連続しているもので、民主主義ではそのバランスをどこに置くかを人民が決めることになっている。アメリカでは、格差等への不満や差別心を刺激され、明らかな嘘つきであっても権威主義を選択しようとする人が増えている。一方、イスラエルのような典型的な権威主義政権下であっても、自国のみでない人権尊重を優先すべきと考える人はいる。
ついつい、教条的になりがちだが、私は謙虚にリスクアセスメントを行って、主義バイアスを極力避けて誠実にリスクマネジメントをするのが良いと思っている。日本は、デミング氏の助けを借りて、品質に関して第三者組織をうまく機能させることができ、経済成長の果実を得ることができた。モノのリスクマネジメントに一時は成功したのである。今もその力を失っているわけではない。
私は、グローバル化している現代において、今問題になっているのはコトのリスクマネジメントだと思う。権力を志向する者は本質的に独裁を目指すので、個人では手が届かないリスクの存在を煽り、私に権力を預けよと嘯く。騙されてはいけない。