新生活190週目 - 「弟子たちを派遣する〜天に上げられる」

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今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「主の昇天 (2024/5/12 マルコ16章15-20節)」。3年前の記事がある。マルコ伝はもともと空の墓の記事で終わっていて、この箇所は存在しなかったとする説が有力だ。おそらく後日加筆されたものだろう。並行箇所はルカ伝24章と使徒行伝1章にある。復活信仰はキリスト教の中核なので、後に加筆したと考えたい。

福音朗読 マルコ16・15-20

 15〔そのとき、イエスは十一人の弟子に現れて、〕それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。16信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。17信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。18手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
 19主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。20一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕

マルコ伝では昇天の記事は1節だけと短い。

第一朗読 使徒言行録1・1-11

 1‐2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。3イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。4そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。5ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
 6さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。7イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。8あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」9こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。10イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、11言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

 今日の第一朗読の使徒行伝では、3節が割かれていて「雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」とある。神の右の座に着かれたとするマルコ伝の記述と整合しない。一方「主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」とあり、昇天後のイエスは弟子たちと共に働いたと書かれている。

感覚的には、イエスが今も信者に対して影響を与え続けているというメッセージは心強いものだ。

使徒行伝の成立時期はイエスの死後40年程度は経過していると思われ、初代の信者の活動記録を兼ねている。どの程度史実通りなのかは良くわからない。ただ間違いないのは、宗教活動が拡大して世界宗教と変貌したということだ。現代でも、「主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」は有効だと考える人は多いだろう。私も支持する。ただ、自分に働きかけるメッセージが確かなものかを確認する方法はない。むしろ、愛を起点に生きろというメッセージを信じたいという思いの成果だと考えるほうが人間的な解釈としては正しいように思う。

3年前に私は「イエスは復活から40日目に昇天したとされているのだが、なぜずっとこの世に残らなかったのか、その日数にどのような意味があるのかは謎である。」と書いている。今もそう思う。一方で、新興宗教の時期をカルト化せずに乗り切れた事実を考えると、初期の信者が私欲に走ったようには思えない。体験として「主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」は実感だったのではないかと思う。そして、命をかけて善を行う人が増えていくことで、世論の風向きは変わっていったのだと思う。ペトロやパウロのようなスターに対する記述は相当盛られているだろう。しかし、無名の信者が増えていくことで、自分の身近な人で信者となった人に接する機会は増えただろう。中には、キリスト教を利用して利益を得ようとしていた人もいただろうが、中心的な「愛」というメッセージの魅力と信者の行動が影響を与えていく。そして福音は市民権を得た。

マルコ伝に加筆された頃、あるいは使徒行伝が文書化された頃には、もうすでに新興宗教の時期は過ぎていて、そもそも何があったのかを整理する時期だったのだと思う。

史実を追求することには価値がある。史実を追求していくとヨハネ伝の記述の多くは事実性が否定される。一方で、経験に基づく解釈として捉えると、ただ史実を追うよりは自身の体験に投射しやすい。マルコ伝の追記部分にも同様の効果がある。

3年前に「直感的には、天は上の方にありそうで、空の彼方にあるような気持ちになるが、現代人は空の向こうには空気も存在しない宇宙空間が広がっているのを知っている」と書いているが、登り切る前に「雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」のであれば、宇宙に行ったわけではないと解釈できなくもない。ただ、やはり昇天を物理的な意味を持つ史実と捉えるのは難しい。書かないわけにはいかないから書いたのだろう。聖書の記述、絵画、映画等の多くの創作活動の成果を見るとだんだん自分の頭の中に刷り込みが起こってイメージができていく。一度信じて、解釈を定着させた後で、改めて史実を考えると自分の信仰告白体験が色褪せるかと言えばそんなことはない。自分の能力不足は残念なことだが、与えられたメッセージに応えていく気持ちは本物だと思っている。

※冒頭画像は英語版Wikipedia経由でたどり着いたボストン美術所蔵のJohn Singleton Copley: The Ascension