今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「聖霊降臨の主日 (2024/5/19 ヨハネ15章26-27節, 16章12-15節)」。3年前の記事がある。3年前の記事では、第一朗読(使徒行伝)を引用している。
福音朗読 ヨハネ15・26-27、16・12-15
15・26〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。27あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。
16・12言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。13しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。14その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。15父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
新共同訳聖書のみだしは聖霊の働きは16章5節〜15節。選択箇所と微妙にずれている。
福音のヒント(1)では「きょうの福音の箇所は15章と16章の聖霊の約束が組み合わされていますが、わたしたちにとっても単なる未来の約束ではなく、すでにわたしたちの中に実現していることとして聖霊降臨の出来事を味わいましょう」と書かれている。果たして真理の霊は私に来ただろうか。来なければ信仰告白はできないと思うので、やはり私にも聖霊は来たと考えるしかない。しかし、当初単純に信じたようには世の中は単純ではない。少なくとも教会、牧師や役員によって迫害される日が来るとは思いもしなかった。
教会学校時代にほぼ毎回出席していた同級生4名のうち、2名は他界している。それは御心と受け止められたのは、そうは思っていないが、単に自分事として感じられなかったと解釈することもできる。自分に起きる事件についてもものによっては淡々と受け入れられるものもあれば、容易には受け入れられないものもある。改めてヨハネ伝を読むと少々力強すぎないかと思うのである。「真理をことごとく悟らせる」という言葉は現実にあわない。
「真理をことごとく悟らせる」をどう受け取ればよいのだろうか。所謂科学的真理として知りたいと思うことは多々ある。例えば地球温暖化に抗う方法も知りたいし、戦争の被害者をなくする方法も知りたい。自分ひとりでは難しいことでも力を合わせればできることは少なくはない。真摯に祈りを合わせれば道は開けるのではないかと思う気持ちはある。また、御心を聞くことが無意味だとも思わない。しかし、どう考えても「真理をことごとく悟らせる」という言葉は現実にあわない。信者でない人から見れば、信者が真理を悟っているとは思わないだろう。信者だって真理を悟るためにはイエスあるいは聖霊に聞くしかないという信仰だけが頼りだと思う。努力してもわからないこともあるし、努力しなくても突然わかってしまうこともある。
キリストを皆が信じればすべてが変わるとも思えない。別の神の民だから意見があわないと考えるのも現実的ではない。
どうも最後は主よ来たりませという祈りに集約されてしまうように思う。
ヨハネ伝が編纂された頃は、すでにイエスの磔刑から一世代が経過し、主の再臨はすぐには起きないという現実に直面していただろう。信者であっても、この道は間違いないと思いつつも、主の再臨が近く世の中のルールを書き換えるだろうと思い続けることは困難になっていたと思う。だから、ヨハネ伝は力強く書かれていて、(受洗直前の私のような)それにすがりつきたくなる人の心を捉えているのだと思う。
聖霊が来ることで全てが変わると考えると盲信となる。しかし、影響の大小はあれ、聖霊が働くと変化は起きる。私は多少大げさに書かれているかも知れないが、ペンテコステの奇跡はあっただろうと思っている。自分に聖霊が来なかった人が見て驚いたということもあるだろうが、一番驚いたのは自分に聖霊が下った人なのではないだろうか。
信仰告白は個人的で小さな奇跡に過ぎないが、顕著な聖霊の働きである。いつ誰に起きるかはわからないが、ある日あなたにも起きるかも知れない奇跡である。その存在を伝えていくのが伝道と言える。なかなか悩ましいのは、詐欺師が誠実な学者より指示されることが多いのが現実で、なるべく事実寄りであろうとする共観福音書より、大胆な解釈と言い切り型の表現が強いヨハネ伝が教義として参照されやすいのには、詐欺行為との類似性を感じてしまう。力強さから惹かれたとしても裏を取る作業は避けるべきではない。私は「真理をことごとく悟らせる」はガセネタだと思うが、聖霊が真理を悟らせることはあると信じている。いつ、どの真理、真実に光があたるのかは、人にはわからない。それでも、聖霊の働きを願うのは悪くない。ダメ元と言えばダメ元で、それをもって努力を放棄するようでは困るが、やれることはやりながら祈りを続けるのが誠実な姿勢だと考える。
もう万策尽きて何もできないと思った後に聖霊が再来する可能性がある。
※冒頭の画像はGian Lorenzo Bernini, Dove of the Holy Spirit (alabaster stained glass, Chair of Saint Peter, Saint Peter's Basilica, Vatican City), ca. 1660。今の私は聖霊は目に見える形はもっていないのではないかと思っている。