新生活194週目 - 「ベルゼブル論争〜イエスの母、兄弟」

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今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「年間第10主日(2024/6/9 マルコ3章20-35節) 」。3年前の記事があるが、教会暦の関係で聖書箇所は異なる。最近毎週3年前の記事を読み返しているが、とてもおもしろい。3年前にどのように考えていたか、どういう問題意識を持っていたかについて思い出すのだが、書いた内容はほとんど記憶に残っていない。記憶に残っていないのだが、私がどういうふうに考えているかという視点で見れば間違いなく自分が書きそうなことだし、3年経過して生じる異論は浮かんでこない。時間が経過すれば人間は変わっていく。変わっても良いと思う。せめて新しいものを付け加えて一歩進みたいと思うのである。

福音朗読 マルコ3・20-35

 20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。23 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。24 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。25 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。26 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。27 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」30 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。
31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

 22節はマタイ伝9.34が平行箇所となるが、イエスの反駁の記述はない。28節からの部分は、マタイ伝12章、ルカ伝12章に並行箇所がある。福音のヒントの福音朗読では、多分単純ミスで25節までしか書かれていないので、別のソースから35節までを掲載した。

「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て」というシーンを想像すると、本人か、悪霊に憑かれたと思われる病人を連れてきて、どうか治して下さいとお願いしたのだろう。医者のようでもある。ギリシャのヒポクラテスは紀元前400年頃の人で、すでに医術は存在している。病原菌が発見されたのは1680年頃とはいえ、伝染病の存在は知られていただろう。イエスはいかなる病も癒やすことができたのだろうか?

そうかもしれないし、そうでないかもしれないが、少なくとも一定数の病人を癒やしたのは事実だろう。科学的に分析したら、何かが出てくるはずである。強毒性の菌に感染しても自然治癒するケースはあるから、身体の中には潜在的な回復力が備わっていて、何らかの理由でその力が活性化すれば、病人が回復する可能性はあるのだと思う。死者の蘇生のケースもあるから、イエスの関与で完全に死んでしまっている人が生き返るケースはあっても不思議ではない。概ね神経系(センシングと分泌作用)の機能障害によって発症するから、霊が働くと考えるのはおかしなこととは思わない。

信じるというのは不思議な力で、信じるだけで今までできなかったことができるようになったりする。

一方で誘惑の言葉も恐ろしい。その言葉が心に入る前であれば、決してやらないような良くないことをやれてしまうことがある。「大丈夫ですよ」、「このくらい誰でもやってますよ」という囁きは危ない。例えば、2021年アメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件に参加した人たちの多くは普段誠実に社会生活を行っている人だ。つい、自分とは全く別の世界にいる人と考えてしまうが、何の支障もなく一緒に仕事をできるような人だったりする。自分の心を動かす何かは恐ろしいものだ。ベルゼブルにも神にも同じ霊の力がある。

ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も神は同一だ。シオニストも神を信じて権利を守ろうとしている側面がある。

今日の箇所から推定する癒やしは個に向かうものだ。集団を対象にしたものでもはない。愛の力はその対象とする個の厚生を促進する。排他的ではなく見返りも求めない。

悪魔のささやきは行動を促すもので愛がない。それでもどちらも心を動かす霊の作用に感じられる。

良くない行動を引き起こす霊と愛の霊の戦いは果てしなく続く。自分の権利が脅かされていると感じる時は危険な状態と考えたほうが良い。

サタンは全ての人の心のなかに住み着いていて、油断するとその力で悪魔の囁きを発してしまう。その囁きが聞き手に住み着いているサタンを覚醒させ、その人は堕ちていく。人間とはそういうものだろう。言い換えると、他者との比較でものを考えるようになるということだ。

この記事で、エルサレムから下って来た律法学者たちに反駁している。イエスは度々律法学者に攻撃的な態度を取る。律法学者の大半は誠実で有力な人だと思う。ただ、厳しい訓練などを勝ち抜いてきた実績が慢心のもととなる。正邪の判断する責任もあるから、経験も増えて難しい判断もできるようになる。イエスのようにショートカットで問題を解決してしまうのを見るのは面白くない。しかも、人に役割はあっても上下はないという。

力のある人への悪魔の囁きの行き着く先は、自分は法の外の人間だと考えてしまい独裁者に堕ちてしまうことだ。

法を犯すことなく生き続けられる人はいない。その結果が無視できれば誰も小さな脱法を問題視しないが、自分を法としてしまえば独裁に至る危険な状態に陥る。運が悪ければ権力が維持されて破綻に至る。

悪魔の囁きを認識することは難しい。全ての人の心の中にすでにそれは住んでいるからだ。立ち止まって転落を防止できるのは愛の力しかないと思う。罰ではない。もちろん律法に抑止効果はあるだろうが、律法では人を救うことはできない。

内輪で争うことは頻繁に起きる。罪を許せないことが原因だが、罪あるものが自分の罪を認めなければその罪を許すことはできない。法の外に自分を位置づける人を許すことはできないのである。逆に言えば、自分の罪を認めなければその罪は許されようがないことになる。同時に、他者の自覚的な罪を許すことができなければ平和は来ない。不寛容な制度は隠蔽を誘発する。

「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た」は、身内の人はイエスの働きを信じられなかったのだろう。もっともなことだと思う。人間イエスには特別な能力はなかったのだと思う。彼の働きの源泉は彼とともにある聖霊の働きにある。身内の人は身内の人なりにイエスを愛していただろうし、妬みもあっただろう。その人の心の中にあるサタンは起きていることを素直に事実として受け取ることを許さないように作用する。

福音のヒント(1)では(身内を含め)「イエスに対して無理解な人々の姿」と書かれている。圧倒的な事実を見ても、その事実を認められない心の働きは近い人であっても、遠い人であっても起きる。同時に、霊が動けば突然理解できるようになることもある。聖霊に聞け(祈れ)ということだろう。「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」は重い。

善き行いは自分から出るのではなく聖霊の働きであることを自覚し、他者が行う善い行いを裁いてはいけない。それは聖霊を冒涜する行為となる。

※冒頭画像はフォト蔵のページ(https://photozou.jp/photo/show/216071/264631153)から引用させていただいたカオナシの写真。ベルゼブルで検索するとおどろおどろしい画像が見つかるが、私の悪魔のイメージは我欲に働きかける存在だから意思の希薄なカオナシ的な存在ではないかと考えている。自分以外への愛が心を支配している瞬間は内なる悪魔は動けない。