今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「年間第13主日 (2024/6/30 マルコ5章21-43節)」。3年前の記事がある。マタイ伝9章とルカ伝8章に並行箇所がある。3年前の記事を読むと、当時に自分がこういう風に考えていたのかと思った。今だと同じようには書かない。
福音朗読 マルコ5・21-43
21〔そのとき、〕イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。22会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、23しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」24そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
25さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。26多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。27イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。28「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。29すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。30イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、
「わたしの服に触れたのはだれか」
と言われた。31そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」32しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。33女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。34イエスは言われた。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
35イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」36イエスはその話をそばで聞いて、
「恐れることはない。ただ信じなさい」
と会堂長に言われた。37そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。38一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、39家の中に入り、人々に言われた。
「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
40人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。41そして、子供の手を取って、
「タリタ、クム」
と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。42少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。43イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。
並行箇所を含めて、2つの話が同時に出てくるのが気になる。福音のヒント(4)では「出血症の女性の話は、ヤイロの娘の話に「信じる」というテーマを導き出す役割を持っているのです」と書いてある。異論というほどのことはないが、私にはしっくり来ない。英語版Wikipediaのヤイロの娘は、共観福音書の対比が書かれていて参考になる。解釈も書かれている。日本語版はない。マルコ伝とルカ伝では、イエスが力が出ていったことに気づいて対象を探すが、マタイ伝では力が出ていったことには触れられていなくて、直接女性に話しかけている。ヤイロの娘に関しても、マタイ伝では既に死んでいるところから始まっっているが、マルコ伝とルカ伝では重篤な状況にあるところから始まっていて、途中で死亡が伝えられる形になっている。Wikipediaではヤイロの娘の12歳という年齢は成人を意味することに触れ、婚姻の可能性に触れている。
この奇跡の後ヤイロの娘がどうなったのかはわからない。ヤイロの娘自身のコメントも書かれていない。成人年齢であれば、自分に何が起こったかは分かるだろうし、常識的に考えれば感謝するだろうと思うのだが、「食べ物を少女に与えるように」とあって、一人の人間として娘と向かい合っている感じがしない。会堂長夫妻に焦点があたっている。事実として少女の蘇生はあったのだろうが、この奇跡の含意は釈然としない。地域の名士の死んだ娘を復活させたという話は布教上は大きな意味を持つと思うけれど、それだけだとあざとい感じが残る。イエスはこの後、ヤイロの会堂で説教したのだろうか。
一方出血の止まらない女の話の方は、切実さが感じられ、奇跡が起きて良かったと思える。
マルコ伝では洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時に「天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」がイエスに対する最初の言及になっている。霊が降ったというのがスタートポイントで、その後霊は留まって奇跡の源泉になったと考えるのが自然だ。出血の止まらない女の奇跡は、イエスが能動的に動いたのではなく、霊が動いたということで、イエスは自分に留まっている霊の一部が出ていったと感じたので、次いで能動的に女と関わったと理解できる。出ていった霊は定着したのだろうか、それともその瞬間の動きだけに留まったのだろうか。治癒の体験は強烈だ。彼女はイエスの説く道に生きようと心に誓っただろう。果たして、その後どのような人生が送られたのだろうか。
この2つの奇跡はどちらも強烈なインパクトがある。当事者の心が揺さぶられたのは間違いないし、傍観者の心も揺さぶられただろう。そして、現代でもこの箇所を読む人の心を揺さぶる。日常では奇跡は起こらない。しかし、心を揺さぶられる体験はかなり頻繁に起きる。その時に、どう動くかは自分で考えなければいけない。
霊には通常起こり得ないことを起こす力があると信じても、自分で霊を使いこなすことはできない。現実的には霊を信じて、善い行いをなそうとする以外の道はない。そして、時に霊が動くことはあるし、多くの人の善い行いは蓄積されて社会を変えていく。差別は減り、障碍者が生きていける道も増えた。他人と比較して一喜一憂する思いから自由になることは難しいが、誰ひとり取り残さないという標語はある程度受け入れられるようになった。困難や救済を感じたら、次にどう動くかを考える祈りが新たな道を導く。
※英語版Wikipediaのヤイロの娘経由でたどり着いたロシア帝国美術アカデミー美術館の絵。実際のその時の場所や施設はどうだったのだろうかと考える。