新生活201週目 - 「五千人に食べ物を与える」

今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「年間第17主日 (2024/7/28 ヨハネ6章1-15節)」。3年前の記事がある。B年なので、福音朗読のマルコ伝の並行箇所を掲載しておく。この話は4福音書に出現している。

福音朗読 ヨハネ6・1-15

 1〔そのとき、〕イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。2大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。3イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。4ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。5イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、6こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。7フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。8弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。9「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」10イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。11さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。12人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。13集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。14そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。15イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

マルコ伝6:30 五千人に食べ物を与える

30 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。35 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。36 人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」37 これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。38 イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」39 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。40 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。42 すべての人が食べて満腹した。43 そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。44 パンを食べた人は男が五千人であった。

3年前の記事を見直してみると、参照リンクが切れていて人口の話などが辿れなくなっている。武道館のコンサートの満席が8000人程度とすると、その6〜7割。拡声器の無い時代にイエスの声が届いた可能性は低い。また、武道館のアリーナを想像すると約120人✕25ブロックとして3000人、「百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした」は相当計画的に誘導しないと機能しないだろう。ちょっと眉に唾をつけて読まないと箇所だと思う。自由学園時代のことを思い出すと、体操会の時に大芝生に集まった全校生徒が1000名強で、その数倍の人を相手にするのは想像もつかない。肉声で説教が届くのは、せいぜい100人程度だろう。かなり従順な集団でも12名の使徒でコントロールできるのはアシスタントがついたとしても1000名が限界だろうと思う。12の籠が現実だとすると600人程度の集団と考えたほうが合理性がある。それでもなお「五つのパンと二匹の魚」が足りるとは思えない。半斤のパンと6分の1の魚を50人で分け合ったとしたら、やはりなにか隠し持たれていたものが共有されたと考えるほうが現実的だろう。

ただ、規模や食事内容は別にして、チームで助け合って一体になっていった事件あるいは奇跡は起こった。集まった群衆は自分のために集まったのだと思う。その時に、他の人々は眼中にない。イエスに何かがあると感じていて、彼を見に来た人々だろう。抜け駆けのチャンスを探るような人も少なくなかったのではないか。しかし、イエスは群衆を相手に俺について来いとは言わない。一人の人を見て、信じなさいと説くことはあるし、ついて来いと言うこともついて来るなと言うこともある。一人の人がよりよく生きられるように導く。それは奪い合いで生き残る道ではなく、近しい人に敬意を払って共に歩む道を進む道でもある。「飼い主のいない羊のような有様」はリーダー不在で自分で歩む道を決めることもできない存在と考えれば、その群衆の一人ひとりが、自分の意思で周囲に目を配りながら良い人生を送り始める瞬間を迎え、救いの体験をしたのだろう。

不思議でひもじくても快適な瞬間があったのではないだろうか。

宗教にかかわらず、利他の感覚を体感できる瞬間は時々訪れる。この道に生きようと願う瞬間もあるだろう。しかし、そういう体験は一過性で永続しない。家に戻ってしばらくすれば、日常の中で体験は薄れていく。体験した時は、すべての人々が同じ位置に立つことができれば社会が変わるのではないかという夢を見、しばらくすると、現実はそんなに甘くないと夢は薄れる。それでも、おそらく群衆の一人ひとりが体験して受け入れた道は、薄れていったとしてもずっと残っただろう。道を捨てずに伝道が進んでいく人を見て、再びその道を歩もうと思い直した人はいた。愛を起点に生きよという教えは、実現できるのならそれに越したことはないと思える人は少なくない。特に、何らかの体験が伴う場合にはそれが定着する。

信仰告白という行為は時と共に薄れていく体験を思い返す効果がある。聖餐の儀式も同様だ。その価値を否定しないが、本質は愛と真実に生きることだろう。助け合い無しに生きていくことは困難だとしても群れれば良いわけではない。群れを過度に優先してしまうと群れの外側を排除する集団になってしまうからである。誰かに依存するのではなく、直接イエスに繋がらなければいけない。

もちろん、本当に手品のように十分な食事が湧いて出た奇跡の可能性も5000人という数も本日の箇所のとおりだったかも知れない。私自身はそこにいたわけではないから、その体験はしていないが、もしその場にいたとしたら、物見遊山で来て帰る時は希望に満ちていたような気がする。数日は行動が変わったのではないかと思う。しかし、その体験だけでは永続性はなかっただろう。イエスの死と復活、聖霊の働きがあって体系が整理され、一人の知を超える蓄積の上に現実的な指針が確立されていった。道なき場所での体験での信仰から、先人の失敗に学びつつより短時間で好ましい道が見つけやすくなった。教会も間違えることがあるから、教会が語ることを慎重に見極めつつ、疑義を覚えたら聖書を通じ、祈りを通じ、イエスに聞くしか無い。必要な時には聖霊が働く。

※福音のヒントでもモザイクが引用されているが、Church of the Multiplicationがこの箇所の場所とされている。ガリラヤ湖の湖畔に記念教会が建てられている。ユダヤ教徒の強硬派によって併設施設が放火され、その後から教会を撮影した写真を冒頭に引用させていただいた。