読了後に読んだ英語版のWikipediaでは、簡潔に「Tools for Conviviality is a 1973 book by Ivan Illich about the proper use of technology.」と書かれている。テクノロジーの適切な使用法について書かれているというまとめを読んでなるほどと感じた。
イリイチは脱学校の社会が有名で、コンヴィヴィアリティのための道具はその後に発行された書籍で、脱病院化社会より前のものだが、医療産業の弊害について言及していて、教育産業同様制度化の問題点を指摘している。同じ構造と位置づけているように読め、確かに「(産業化の源泉となる)テクノロジーの適切な使用法」、あるいは不適切な利用に対する批判が書かれていると感じた。正直に言って難解な本で考え方を理解できないわけではないが、具体的にどう応用すればよいかを考えるのは容易ではない。テクノロジーが忌避すべきものと言っているわけでもないし、産業を全否定するものではないが、独占と利権の入口となることには納得するし、個々人による抵抗は困難を極めるのは現実だと思う。1回読みでは、どうもすっきりしないが、「はじめに」に戻って読み直し、書評や関連検索、目次を見直すとああそういうことだったのかというのが見えてきた。
目次
1 二つの分水嶺
2 自立共生的な再構築
3 多元的な均衡(生物学的退化
根元的独占
計画化の過剰
分極化
廃用化
欲求不満)
4 回復(科学の非神話化
言葉の再発見
法的手続きの回復)
5 政治における逆倒(神話と多数派
崩壊から混沌へ
危機の洞察
急激な変化)
「二つの分水嶺」の最初は医療の状況についての言及に始まる。問題の所在を提示した上で、「自立共生的(Convivial)な再構築」6つの姿勢について書かれているのだが、理想社会を想定しない、具体的な手法を提示しないなどの否定的言明から入り、3で「道具の構造に焦点をあわせようと思う」と書いている。振り返り読みでなるほどそういうことだったのかというのが見えてきた。「多元的な均衡」でようやく目次にある6つの道具の構造的問題が提示され、「回復」で構造的問題に対する取り組みのヒントが提示されている。最後の「政治における逆倒」は自立共生を妨げる問題について考察している。
道具はToolなのだが、Wikipediaの解釈を適用するとTool = use of technology, technology applicationと考えるとよいのだと思う。サイエンスがものの理とすると、エンジニアリングがその応用ということになる。教育はサイエンスとエンジニアリングを人が習得するためのTechnologyということになり、教育の産業化はtechnology applicationの効率化を意味する。効率化は差別化がインセンティブになるので「多元的な均衡」で述べられる落とし穴に直面することになる。手段の目的化と近い。医療も健康を維持するという目的に対して、医療技術(Science、Technology)が開発され、それの応用が医療産業として立ち上がっていく。医療技術の応用に関して、必然的に独占が進み、その利権の獲得が本来の健康を維持するという目的のための医療技術の応用を阻害する状態になれば、それは the proper use of technologyが破綻した状態と言えるだろう。
そこに気がついてしまえば、「回復」で書かれていることは至極最もなことは分かるし、「政治における逆倒」の指摘も自然なことに思えてくる。ただ、例えば新型コロナのような事象を前にすれば、製薬業の能力が足りなければ、破壊的な結末を迎えた可能性があり、医療産業が多元的な均衡を逸脱しているように見えたとしても代替方法を見出すことは困難だと思う。イリイチの提案する自立強制的アプローチを強調しすぎるのは危ないように感じる。
ではどうすれば良いのかと考えれば、結局は個々が判断して声を上げていくしか無いのだろう。個人的には、「法的手続きの回復」あるいは制度の善良化が民主主義社会で有効な手段になるのではないかと考えている。独占を制限するとともに、富の再配分のメカニズムの調整で、the proper use of technologyが前進するのではないかと思う。ただ、様々な業種、業務が組織されている中でどう適切な範囲を見極めていくかは困難な課題なので、つい教育や医療に視点が偏ってしまう。
自立共生とCoworkingは近しい言葉でもある。CoworkingをキーワードにConvivialityを考えると少し狭くなってしまうリスクがある気がするが、Coworkingを産業構造あるいは企業とは独立した社会関係と捉えると、Convivialityの発展に資するコミュニティの器としては有効だろう。そういう意味でLike Mindedという言葉は意味を持つだろう。
訳者あとがきでConvivialityに自立共生という訳をあてる是非について触れられている。私は、良い訳だと思った。Tools for ConvivialityのToolsは、「自立共生的な再構築」で触れられている道具のことではなく、「回復」で述べられている政治を動かす道具を意味するという解釈もあるかも知れない。共産主義的なゴールが志向されているように読めてもしまう。イリイチがカトリックで叙階されていたことを踏まえれば、キリスト教的な「愛」の権威独占(人治)によらない制度化のすすめと読むこともできるだろう。
※冒頭の画像は、筑波書房のコンヴィヴィアリティのための道具のページから引用させていただいたもの