新生活207週目 - 「耳が聞こえず舌の回らない人をいやす」

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今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「年間第23主日 (2024/9/8 マルコ7章31-37節)」。3年前の記事がある。並行箇所は見当たらない。

福音朗読 マルコ7・31-37

 31〔そのとき、〕イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。 32人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。 33そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。 34そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。 35すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。 36イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。 37そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

学生時代に一時手話を習っていた。「耳の聞こえない人」と接したことはあったが、当時はかわいそうだと思っていたから失礼だったと思う。耳が聞こえなければ様々な不利があり、周囲の助けが必要なことは多い。この不利がなくなれば良いのに願うことはあるだろう。この箇所の人は人々に連れられてイエスのもとに来た。なぜ人々はこの人を連れてきたのだろうか。子供に不利をもつ人がいれば、何とか自力で生きていけるようにできないものかと手を尽くす親はいるだろう。一方で、愛があってもサポートを続ける負荷は大きい。自分のために使える時間は減るし、体力も奪われる。疲弊して誰かを頼りたくなることもある。経済的な問題も出て、継続にも限界がある。介護での無理心中や、様々な悲惨な事例も耳にする。容易に回復が見込めない病や、機能障害とは一生それを前提として生きていく方法を考えるしか無い。それでももし不利が解消できたならと祈らずにはいられないだろう。

イエスは「天を仰いで深く息をつ」いたと書かれている。福音のヒント(2)では「イエスの心の激しい動きを表しています」と書かれている。イエスは彼を見て、彼と彼の背景が分かったのではないだろうか。

彼には自立の願いと潜在力があったのだろう。イエスは阻害要素を取り去った。

そして、人々のもとに帰ってきた。

その人自身の発言は記録されていない。イエスは人々に口止めをした。それは耳が聞こえなかった、舌が回らなかった人のためにならないと思ったのではないだろうか。彼の環境は激変し、彼の周囲の人の生活も変わる。支えてもらった過去は消えないし、自立に向けて今までとは違った努力が必要になるだろう。もちろん、素晴らしい変化に違いないが、人生は続くのである。イエスに治してもらった人という好奇な目にさらされ続けるのは望ましいことではないだろう。彼はその後の自分の人生を治された事実とともに歩むことになる。誰かの自立を阻む事象を意識せざるをえないだろう。

ちなみにStrongsコンコルダンスによれば、「エッファタἐφφαθά (ephphatha)」という言葉は聖書にこの一箇所しか無く、「深く息をつきστενάζω (stenazó)」は6箇所あるがパウロ書簡3箇所はもだえるという訳、ヘブライ書、ヤコブ書では文句を言わずにといった別の訳があてられていてこの箇所と同じ意味を指すような言葉としてはこの一箇所しか無い。

3年前の記事で私は以下のように書いていた。

この聖書箇所の人は、普通の意味で「耳が聞こえず舌の回らない人」だっただろう。そしてイエスと出会って耳が聞こえるようになり、発話できるようになった。自分は耳が聞こえて発話はできるのでそういう意味でこの話は私にとっては他人事だ。しかし、種まきのたとえの「聞く耳のある者は聞きなさい」を想起する。自分は本当に聞こえているのだろうか、見えているのだろうかという迷いは常にある。現実社会では、同じ場所で同じものを見ていてもその人の中に入っていくものはかなり異なることが頻繁にある。同じニュースに接しても解釈は割れる。客観的な事実は理解を一致させる意思さえあれば相当なレベルで合意に達することは可能だが、一致に至らない事例など山のようにある。

つまり、自分は見えている、聞こえている自信があったとしても、本当に見えているか、聞こえているかは怪しいのだ。特に意見が割れて少数派になるとさらに難しい。自分が見えていないだけかも知れないが、自分が見えている景色のほうが事実を的確に捉えている可能性もある。著名な事例で言えば「それでも地球は回っている」だ。「耳が聞こえず舌の回らない人」はマイノリティで大多数の人と同じように聞くことはできない。それは辛いことだが、耳が聞こえれば正しい認識ができるわけではない。

今もその思いは変わらない。つきつめて考えれば、誰一人すべての真実に通じている人などいない。誰もが一部だけが見えている。その見えている部分で判断して行動を決めていかなければいけない。自立したいと心から願い祈ったとき、イエスは「深く息をつき」、見えるようにしてくださるのではないかと思うのである。

画像は、Healing the deaf mute of Decapolis経由で引用させていただいたもの。この絵画ではデカポリスでの話になっている。