新生活216週目 - 「律法学者を非難する〜やもめの献金」

今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「年間第32主日 (2024/11/10 マルコ12章38-44節)」。3年前の記事がある。ルカ伝20章、21章に並行箇所がある。

福音朗読 マルコ12・38-44

 〔そのとき、〕38イエスは教えの中でこう言われた。
「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、 39会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、 40また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」 

41イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。 42ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。 43イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。
「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。 44皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

3年前の記事を読み直してみて、その当時そんな風に考えていたのかとちょっと意外に思った。3年という月日は短いようで長いのである。今なら、同じ内容は書く気にならない。福音のヒントの内容はどれももっともで自然に受け入れられるものだ。

改めてこの箇所を読み直すと「大勢の金持ちがたくさん入れていた」という箇所が目についた。人に見られることを意識している人もいるだろうが、単純に社会的責任と考えている人もいただろう。現実問題として寄付が十分に得られなければ神殿は維持できない。金持ちはご利益を求めて賽銭を出していたのだろうか。日本だと、稲荷神社が多数あって、今でもお参りしてお賽銭を収める人はいる。子供の頃はそんなものかと思っていたが、今は何で参拝するのか私には意味がわからない。もちろん、信心は個人の自由だから、迷惑のかからない他人の行為を批判するつもりはない。

現在のプロテスタント教会では、献金の祈りをする時には「御業のためにお使いください」などと祈る。実際には経営は分離されていて、役員会で献金をどう使うかを決めている。当然、役員会が腐ったと思う人が増えれば、献金は集まらない。団体代表の牧師が腐ったと多くの人が思えば解任することもできる。現実問題として、賽銭、浄財が適切に使われると信じられなければ組織は維持できないのである。維持するために強制的に集めれば税金になる。昔は強制的に教会税を納めさせる国もあったが、政教分離の進めば強制はできなくなる。この聖書箇所の時期、賽銭箱への賽銭は無記名だったのだろうか。神社でもそうだが、立派な建物を建てれば維持費がかかる。維持費が賄えなくなれば廃寺(廃神社)になるように、無牧になる教会もあれば、欧米でも廃教会は統計に出るほど多い。政治的圧力団体になることで持続性を確保する集団も生まれてくる。自然と排他性が高くなる。「私達クリスチャンは」などと牧師が言うようになったら既に終わっていると考えたほうが良い。聖書にはこう書いてある、それをこう読むのが良いだろうという福音のヒントの書き方を私は尊敬の念をもって読んでいる。もちろん、確信している事柄があれば言い切っても良いだろう。

祭司長たちは、賽銭を集めて使う側でものを見る。経営を成り立たせるためには集めなければいけないし、自分達が食える以上集めなければインフラ整備のような社会貢献に使うことはできない。ただ、利権を守るための制度を作っていれば税金を懐に入れているのと同じである。今の金権まみれの政治家と変わらない。その剛腕で社会が経済成長することもあるが、そうとう注意しないと持続性はない。

この箇所のイエスは、使う側のことに先に触れている。「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」は本来社会福祉に貢献すべき立場にいるものが、本来支出すべきものを自分の懐に入れつつ、どれだけ自分が社会貢献しているかを誇っていては駄目だと言っている。同時に献金への積極姿勢は必要だと言っている。もう一歩踏み込めば、弟子たちに現在の権力者に変わってあなたがたが集めなさい、そして本当に必要なことに使いなさいと言っているのだろう。あるいは、現在の権力者の道を正せるような働きをしなさいと言っていると取ることもできるだろう。

私は「御業のためにお使いください」は望ましい姿勢だと思う。現実的には、正しいと思う所に納めるしかない。

国家納税も感覚的には変わらない。政策が正しくないと思う政府に税金は払いたくない。アメリカの選挙結果は、どれだけトランプが嘘つきであっても、民主党政権に税金の使い道を任せるよりましと考える人が多数を占めたということだ。無能な理想主義者に金を預ければ無駄金になるから、危うい有力者に任せるほうが良いと考えるのは合理的かもしれないが、邪悪でない有能な人を育て、必要な権限を任せられる制度を作ることを目指すのが望ましい。

神は「御業のためにお使いください」という純粋な意思を見ているとイエスは説く。そのとおりなのだろう。使う側に立つものの責任の重さにも重点を置いていることを忘れてはいけない。出せば良いということではない。その才能に敬意を払うとしても、英雄や天才に依存してはいけない。共産主義もエリートに財布をすべて任せるような制度設計の結果、専制に至って社会を痛めた歴史になかなか学べない。かなり優れたドイツの民主主義もヒトラーを生んだ。御国を来たらせ給えという祈りの意味をよく考えなければいけない。英雄信仰では世は救えない。この時代にこそ、改めて隣人を愛せよという教えを思い起こさなければいけないと思う。

※画像はWikimediaのWoe unto You, Scribes and Phariseesから引用させていただいたもの