今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「王であるキリスト(2024/11/24 ヨハネ18章33b-37節)」。3年前の記事がある。マタイ伝27章、ルカ伝23章に並行箇所がある。マルコ伝15章2節にも「それは、あなたが言っていることです」という記述があり、共同訳では同じ「ピラトから尋問される」という見出しがついているが、BSBではJesus Delivered to Pilateとなっていて、ヨハネ伝、マタイ伝、ルカ伝ではJesus before Pilateと異なっていてその見出しの並行箇所としてマルコ伝の箇所は位置づけられていない。何が違うのか良くわからない。
福音朗読 ヨハネ18・33b-37
33b〔そのとき、ピラトはイエスに、〕「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。 34イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」 35ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」 36イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」 37そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
「王であるキリスト」はカトリックの祭日で、英語版のWikipediaのFeast of Christ the Kingに詳しく書かれている。現在の暦はパウロ6世の1969年改暦のものらしいが、遡っても1925年からの祭日でそれほど古いものではない。関連して、改訂共通聖書日課がカトリックだけのものではなく、それぞれ多少の変更を加えたうえで1992年頃から広く使われるようになったことを知った。タリンのメソジスト教会でもそれに沿っているようだ。
「王であるキリスト」は暦の最終週となるので、再臨を象徴するという考え方もあるらしい。1925年の制定では最終週ではないので、もともとはそういう思いは込められてはいなかったのではないかと思う。独自にPDF版を公開している牧師もいる(主日と祝祭日の聖書日課)。カトリック中央協議会のページでは、聖書朗読で検索すると年度版が見つかる。今週が最終週となる2024年度は『2024年度 典礼暦と毎日のミサの聖書朗読 - カトリック中央協議会』、2025年度は『教会暦と聖書朗読 2025年度 主日C年週日第1周年』から参照できる。福音のヒントはカトリックの神父のページなので、もちろんカトリックの暦に従っている。年間(第8週~第34週)のページには以下のように書かれている。
【王であるキリスト(年間最後の主日)】
最初の公会議であるニケア公会議(325年)の千六百周年を記念する1925年、教皇ピオ11世(在位1922年~1939年)は12月11日付で回勅を発表し、11月1日の諸聖人の祭日直前の日曜日、すなわち十月最後の主日を「王であるキリスト」を祝う日と定めました。当時は第一次世界大戦後で、無神論や独裁体制などの影響がみられるようになった時代でした。そのような状況の中でこの祭日を定めることによって、キリストこそが人類世界を治める最高の権威者、王であることが示されました。その後、1969年の典礼暦の改定により、終末における完成とキリストの再臨への待望と関連づけて、年間の最終主日に移されることとなりました。
[A年]
第1朗読 エゼキエル34・11-12, 15-17 お前たち、わたしの群れよ。わたしは羊と羊の間を裁く
第2朗読 一コリント15・20-26, 28 キリストは父である神に国を引き渡される。神がすべてにおいてすべてとなられるためである
福音朗読 マタイ25・31-46 人の子はその栄光の座に着く。そして、すべての国の民をより分ける[B年]
第1朗読 ダニエル7・13-14 彼の支配はとこしえに続く
第2朗読 黙示録1・5-8 地上の王たちの支配者である方は、わたしたちを王とし、神に仕える祭司としてくださった
福音朗読 ヨハネ18・33b-37 わたしが王だとは、あなたが言っていることである[C年]
第1朗読 サムエル下5・1-3 長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした
第2朗読 コロサイ1・12-20 御父は、わたしたちを愛する御子の支配下に移してくださった
福音朗読 ルカ23・35-43 イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください
制定の背景には戦争があること、改暦の解釈についても書かれている。正直、さすが歴史のあるカトリックだと感心する。
一方で、B年二回目を終えようとしている今、聖書箇所はこれらの朗読日課ではカバーしきれないから、プロテスタント教会で良く今年はマタイ伝をやりますとか、エレミヤ書をやりますといった通読的な設定にも利点はあると感じる。両方いれると、重くなりすぎるとも思う。ただ、カトリックの教会暦は基本形の知識としてプロテスタントでも学ばれた方が良いだろう。意見の違いも含めて検討されるべきだとも思う。私にとっては、マリア信仰も聖人認定にも強い抵抗感があるので、カトリックの教会暦をそのまま受け入れる気持ちにはなれないが、カトリック教会が制定していることに対しては敬意を払うべきだと思っている。
改めて、終末における完成とキリストの再臨への待望と関連づけて「王であるキリスト」を祝うのは何か違うんじゃないかという思いを禁じ得ない。再臨への待望はある。終末における完成の期待もある。しかし、暦として習慣化すると真実を見失うリスクもあると思う。
今日の箇所では、「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」が一番気になる。マタイ伝、(マルコ伝、)ルカ伝にはこの言葉は記載されていない。果たしてイエスは本当にこの言葉を発したのだろうか。共観福音書も含めて共通しているのは「それは、あなたが言っていることです。」である。
「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」はむしろユダヤ教の聖職者に向けて語られるべき言葉だろう。もちろん、ピラトに向けられても良いが、ピラトはユダヤ教の神を信じていたとは思えないから、言葉は通じないと思う。ユダヤ教の聖職者であれば、神の真理をもっとも知るのは自分達だという自負があるだろうから、イエスに「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」と言われれば、それを認めて悔い改めるか、弾圧するかいずれかの選択しかできないだろう。ヨハネ伝の著者は、イエスが繰り返し、お前らは自負しているだろうが、根底的に間違っているぞと言い続けていると解釈していて、この箇所でもう一度記載することで強調しているのだと私は解釈したい。
実際、どうなのだろうか。大括りにするのは危険だが、トランプを組織的に支持しているアメリカの福音派教会はどうなのだろうか。人権を中心に据える民主党の方針の方がイエスの教えに近いように感じられるが、自分達の勢力維持にトランプを利用していないだろうか。自分達がカヤパやアンナスになったとは考えられなくなっているだけかも知れない。
民意を汲んで代弁するピラトに対して「それは、あなたが言っていることです。」というイエスの言葉は「お前がユダヤ人の王なのか」というピラトの言葉が空虚であることを指摘しているだけという解釈もできる。イエスはユダヤ人の王ではなかった。弟子たちは、イエスに対してあなたは私の王ですと心から言うだろうか。それは、ペトロがイエスを諌めた行為に他ならずイエスは同じようにあなたは神のことを思わず人のことを思っていると退けるだろう。
そうやって考え直してみると、「王であるキリスト」という祭日は根本的に間違っていて扇動的なものでしかないと思えてしまうのである。戦争に対する恐れ、政教分離の時代の本格的な到来に恐怖し、2人のローマ法王は道を踏み外したのではないだろうか。
むしろ、王を置いてはいけないという旧約の原点に戻るべきではないかと思う。もちろん、アメリカ大統領を世界の王にしてはいけないし、ローマ法王を世界の王にしてもいけない。王は倒される運命にある。自分に都合の良い王や天皇を作ろうとしてはいけない。
一方で、カトリックという組織は、王は置かずに座という表現を使う。しばしば混同されるが、原理的には正しい道を歩み続けていると思う。だから、どこかの代で間違いを犯しても、プロテスタントなどの分派が台頭しても、長い目で見れば矯正されていくだろう。ともあれ、教会暦としての年末は迎えたので、新たな一年、新たなC年をはじめたら良い。急ぐ必要はないが、教会暦から自由にならなければ完成に近づけないと思う。そのためにこそ、一度はエキュメニカル的な教会暦の統合は目指されて良いと思う。
※冒頭の図は京都教区カテドラルカトリック河原町教会のページにある典礼暦年の図から引用させていただいたもの。繰り返しサイクルを作れば、理解は進みやすくなる。例えば、この図のように見やすくすれば仮想的な自分の居場所も見えるように感じられるから興味深い。