週末を利用してエストニア・ラトビア国境の街Valga(ラトビア側はValka)に行ってきた。
当初は、ヒーウマー島に行けたら良いなと思っていた。平日だとタリンから30分のフライトが朝晩出ているので休みをとって行こうかと悩んでいたが、意外と予定が入ってしまうので平日で予定の入れられる日が残ってなかった。諦めかけていたのだが、ヒーウマー島にも家を持っている当地の知り合いに話を聞いたところエストニア語のページしか無いものの島内のバスのネットワークがわかり、土曜日の朝のフライトで飛んでも夕刻のバス(途中フェリーあり)で日帰りができることが分かった。加えて、島の南部にKassari島という陸続きの島にも寄れる余裕もあることが分かった。この島は、以前は本当に島だったのだが、隆起したために地続きになってしまったもので、2015年に公式に島ではないという扱いとなったが、地名には残っている。そんなところも見られるならぜひ行こうと思って便を調べてみたら、帰りのバスだけが売り切れでどうにもならないことが分かった。
ということで、急遽Valgaに向かうことにした。以前から気になっていて、今ひとつ優先順位が上がっていなかったのだが、ちょうど今週のERRの記事で、Elron hopes for Tartu-Riga train line test run by end of yearという記事が出ていて、恐らく来年にはタリンからRigaへの長距離直行便が走りそうな気配であることが分かった。これは通過点になる前に行っておいたほうが良いのではないかと思い立ったのである。タリンからValgaは電車で約4時間。朝7時の便で帰り着くのは22時前となるが、現地で6時間以上滞在できる。
Valgaはロシア国境のNarvaと比較するとかなり小さいが、両国側ともきれいに整備されている。産業感は強くなく、散歩道が充実している感じだった。Narvaはストレスフルな国境で、国際物流のボトルネックとなる場所だから、国境が機能していれば、トラックの運ちゃんとか宿泊する人も多いだろうし、街は活気を帯びる。一方で、ValgaはEU内かつシェンゲン圏なので荷物も人も検問がなく旗が立っているだけで、行き来する人が滞在して何かするという街ではない。
日本人旅行者が書いたブログもそうそう多くはないが、何件かある。
古いものでは、2004年のTakaの旅行記 国境で分断された街『バルガ』から『バルカ』へでシェンゲン圏に入ったのが2007年でパスポートコントロールの経験が書かれている。この時の国境の場所は、今はラトビア側のTourist Information(なんと土日休み)になっている(地図は雨除けケースから取り出せるようになっている)。
ちなみに、この記事の機関車は健在であった。
他に2016年のラトビアとエストニア 「ヴァルカとヴァルガ」の思ひで…があるが、ここでは「1920年に決められた国境はカエルの小川(frog creek)が境になっています」と書かれていて、当然国境は素通りの場所である。この記事にある国境は、恐らく冒頭の写真の場所では無いかと思われる。本当に小さな小川だ。
その間、2014年のラトビアとエストニア国境の静かな街 VALGA VALKAでは、ラトビア側からエストニアに入るバスが止められて、パスポートにスタンプが押されたことが書かれている。意外と最近まで重さはともかくパスポートコントロールは残っていたらしい。街を流れる川がきれいだという記述があるが、上の小川のことではなく双方をまたいで流れる川のたまりのことだろう。
季節も冬で、天気も良くないので、スカッとした感のある写真ではないが、現在は、護岸が遊歩道として丁寧に整備されていて気持ち良く歩ける。遊歩道が整備されている範囲で上流(ラトビア側)から下流(エストニア側)まで多分3km程度両岸に歩道があり、街側の景色も楽しい。エストニア側は割と近い場所にいくつか墓地があった。下の写真はラトビア側。
時間ギリギリにはなったが、2016年の記事で紹介されていた博物館も訪問した。エストニアやラトビアの歴史ではなく、支配者が変わったり国境ができたり無くなったりして同じ町で行き来に不自由があった歴史は、他の地で学ぶことは難しい稀な歴史と言える。展示はエストニア語のみだが、英語の解説機器を貸してくれるので十分に楽しめた。先にValgaとValkaのことを知ってから散策したほうが良かったかも知れない。私は、展示の最後のメッセージに苦笑いした。
機器を返す時に、最後のメッセージが面白かったと伝えたら喜ばれた。エストニアでは、ロシア、ソ連はかなり嫌われていて、そのためドイツのことは割と好意的に書かれることが多い。もちろん、ナチスの問題を軽視しているわけではないが、ロシアを退けるために共闘した歴史は重いのである。この博物館でも同じ印象があった。ちなみに、私の理解が間違っていなければ、もともとラトビア人の街があった所にエストニア人が入職してきた歴史があるようである。エストニア側の博物館であることを理由にすべきではないが、ラトビアの人がどう考えているかは計り知ることは難しい。言葉も大きく違うし、お互いに隣人と認め、共に歩んでいく覚悟があるのは間違いなさそうだが、どこか緊張関係もあるように思われた。